2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」。主人公は久坂玄瑞の妻の杉文(すぎ・ふみ)ですが、彼女は吉田松陰の妹でもあります。ここでは、幕末の歴史を駆け抜けるように生きた吉田松陰とはどんな人物だったのか、にスポットを当ててみましょう。

黒船・松下村塾・安政の大獄

[イラスト]吉田松陰(アフロ)

 肖像画の吉田松陰は達観したように、静かに一冊の本をめくっています。死の直前、満29歳のときの姿です。坂本龍馬(享年32歳)より短命だったのですね。

 松陰は、倒幕や維新に〈見える足跡〉を残したわけではありません。高い役職についたわけでも、後世に語られる名著を残したわけでもありません。比較的詳しく紹介している中学の教科書でも、(1)「黒船」に密航を企てた、(2)「松下村塾」で逸材を育てた、(3)「安政の大獄」で処刑された、という3点だけです。しかも、松下村塾で子弟の教育にあたったのは、2年ほどに過ぎません。

 そんな松陰が偉人と讃えられる理由は、どこにあるのでしょう?

学問好きの素直な少年

 松陰が生まれたのは、幕末の1835年でした。このころ、ロシアや欧米の船が日本近海に出没し、幕府に通商を迫っていました。海の向こうでは、インドが英国の植民地になり、清もアヘン戦争(1840年)に敗れ、英国の支配に下りました。開国か、それとも攘夷か。幕府は異国船打払令を引き下げることなく、鎖国を続けていたのです。

 松陰の出身・長州藩(山口県)はバリバリの攘夷派でした。藩士の家に生まれた松陰は、尊皇派の叔父から学問を叩きこまれます。鉄拳が飛ぶこともありましたが、素直に頭(こうべ)を垂れ、「何でも知りたい」と貪欲に知識を吸収していったのです。

 松陰の「脳内メモリ」の処理能力・容量は、叔父の期待をはるかに超えるものでした。10歳のときには、藩主・毛利敬親の前で儒学の講義をおこなうほどになったのです。ここで「知りたい病」に加えて「教えたい病」にも罹患します。19歳になると藩校明倫館に呼ばれ、兵学の講義をまかせられました。

 しかし、松陰の知識欲は「外」に向けられていました。世界を知るため、西欧との窓口だった長崎に遊学し、さらに毛利敬親の参勤交代にともない、江戸に向かったのです。「新しい知識を得たい」という一途な思いからでした。ここで佐久間象山に出会い、その博識と慧眼に心酔します。

この記事が気に入ったら「いいね!」をお願いします