山形・酒田の大富豪「新潟屋」の三男である本間宗久(そうきゅう)は、江戸時代にコメ相場の投機に成功し、「相場の大神様」と讃えられた投資家。現在の株のテクニカル分析に使われる「ローソク足」の考案者とも伝えられています。成功の裏には失敗もあり、山あり谷あり本間宗久の投資家人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

投資家の美学

本間宗久の肖像画 出典:『酒田市史』

 「本間様には及びもないが、せめてなりたや殿様に」-山形県下に伝わるこの俚謡に本間家の豪奢を極めた暮らしぶりが端的に表れている。第2次大戦直後、来日したアメリカ人ジャーナリスト、マーク・ゲインが最初に地方取材に出掛けたのは、広島でも長崎でもなく、本間宗久のふるさと酒田であった。宗久たちが築き上げた日本一の大地主の正体を探るためである。後日、超ベストセラーになる『ニッポン日記』にこう記した。

 「酒田ではコメがあらゆる思想と会話を支配している。社会構造もコメを基礎にして築かれ、人間の価値は所有する土地の大小によって測られる。酒井(旧藩主)という姓は酒田では聖なる姓である。が、本間家の地位は酒井より上である。酒田は本間家の酒田として知られている」(井本威夫訳)

 

元祖「相場の大神様」

 そして60年余の時は流れ、コメの威力は衰えたとはいえ、コメ相場で巨利を博し、本間家の礎を築いた本間宗久の名は不滅である。「相場の神様」は数々おわすが、宗久こそは元祖「相場の大神様」といえよう。宗久が残した「秘録」は21世紀の迷える投資家のバイブルとして頼りにされている。

 江戸時代の酒田は「西の堺、東の酒田」と呼ばれ、代表的な自由都市であった。良港に恵まれ、背後にコメの大産地を抱え、早くから「酒田米会所」が設けられコメ相場が立っていた。

 本間宗久が米相場と本格的に向かい合うのは寛延3年(1750年)だから32歳のときである。このとき、本間家の第3代当主光丘(宗久の甥)が播州姫路の取引先に修業のため旅立ったからだ。第2代当主、光寿は長男の留守中、かねて投機の才に恵まれていた宗久に3年間の財政を託した。このとき、宗久の才覚が実証される。ものの本には「買えば当たり、売れば当たり、ちょっとの間に数万金を得た」とある。『酒田市史』にはもう少しくわしく記されている。

 「兄、光寿から家業を任された宗久は持ち前の投機の才と事業経営の手腕を発揮し、財を蓄えた。一説には、本間家の財をゆるぎないものにしたのは宗久であるともいわれている」

 研究家の調査によると、享保16年(1731年)に初代・原光の遺産総額が2,551両であったのが、宝暦5年(1755年)3代目当主光丘が家督相続したときには3万1,074両に膨れ上がっていたという。鈴木旭著『本間光丘』では「宗久一人の才覚によって本間家の資産が急激に膨らんでしまった」と驚きをかくさない。

 宗久が2代目光寿から3代目光丘へのつなぎ役として数年間、本間家の財政を預かったに過ぎないが、ショートリリーフ役でありながらコメ相場に大勝利し、本間家を不滅のものにしたから「宗久様々」のはずだが、修業を終えて帰ってきた光丘は叔父、宗久を追放する。帳簿上の不備をついたといわれているが、「相場は永く家を保つ道に非ず」と相場商いを厳禁、宗久を義絶してしまう。このとき、光丘23歳、宗久37歳。

 「宗久の身中は怒りに震えてたことだろう。血のにじむ『投機』という大事業で巨万の富を蓄えたのだから褒められこそすれ、義絶されるなど思いもよらないことだったが、このとき、宗久は少しも騒がず、飄然と酒田を後にする。もし『宗久伝』がドラマ化されるときがあれば、大きな見せ場となることだろう」(拙著『相場師奇聞』)