東日本大震災から5年を迎えることを受け、宮城県・南三陸町の佐藤仁町長が25日午後1時から、東京の外国特派員協会で記者会見を行った。

 同町は震災の津波で壊滅的な被害を受けたが、現在の町の復興状況などについて語った。

【中継録画】東日本大震災から5年 宮城・南三陸町長が記者会見

震災後対応には大きな間違いはなかったと思っている

東日本大震災から5年 宮城・南三陸町長が記者会見

記者:(英語)

通訳:そして、3.11の大地震、津波をどういうふうに対応したのかについて、もし1から5というスケールを評価するのであれば、その対応がどのぐらいうまくできたのかについての、いま思えばの評価についてもぜひ聞かせてください。

佐藤:1つ目ですけど、町民の生活の変化という、いろいろ。

通訳:考え方。

佐藤:考え方という、たぶん町民の皆さん、いま、完全にこう、分かれて2極化してるのかなと思います。1つは自分の住宅再建が完全に終わった方が結構出てきました。それから災害公営住宅にお入りになっている方々も出てきました。こういう方々はある意味、自分のこれからのついのすみかといいますか、それをまず確保できたということになると、この方々にしてみれば、ある意味復興というのがまた違うステージに彼らは移っていくと思います。ただ、残念ながらそうでなくて、まだ仮設住宅にお入りになってる方々にしてみると、まだ復興途上と。まだまだ復興進んでないねっていう、そういう2極化が進んできたと私、思ってます。

 ただ1つは、私は口癖でいうんですが、災害って残酷だなって思ってるんです。というのはよく簡単に皆さんコミュニケーションというお話しますけどね、震災、津波でね、震災前のコミュニケーションが壊れて、非常に環境が劣悪な避難所に次、移るんですよ。そこはもう電気も水もない。プライバシーもない。情報もない。そういう状況の中で避難所で生活をする。それでもそこにはコミュニケーションができるんですよね。

 今度はそのあとに仮設住宅を早く造ってくれと言われて、仮設住宅をあちこち造っていくんです。そこから劣悪な環境の避難所から、どうぞ仮設住宅から出てください、行ってくださいってお話しすると、そうするとそこの劣悪な環境の中でも、コミュニケーションできちゃうんですよね。しかも一番濃密なコミュニケーションなんですよ。お互いに着の身着のままで来て、やっとここで命だけは永らえたっていう、そこの非常に濃密なコミュニケーションができるんですよ。

 これが仮設住宅に行くことによってたまこれが壊れちゃう。で、壊れて、いまさっきからお話ししてるように災害公営住宅ができる、自分の住宅ができる、そうすると4年間お互いに苦しいところを支え合ってきたコミュニケーションが、これでまた壊れるんですよ。ですから災害っていうのはこんなにもコミュニケーションを崩壊していくという、本当に残酷だなっていうのは私、口癖で言うんですよ。

 それから2点目のオリンピックです。いろいろ東京オリンピック決まったときに、いまのこの復興の状況の中でオリンピックって、もろ手を上げて喜んでられるのかっていう世論と、それから本当に半世紀ぶりに日本にオリンピックがまたやってくるという、両方のご意見ありましたけど、私個人とすればオリンピックはやっぱり国民挙げて、大いに元気に楽しくやるべきだと私は思ってます。やっぱりスポーツの感動というのは、やっぱり復興と同じ次元で考えては私は駄目だと思ってるんです。やっぱり復興は復興、あるいはスポーツはスポーツいう観点で考えていかないと、まだ復興が進まないから何もできないっていう話にはこれはならないと私は思ってるんです。

 ただこういう言い方をすると、いや、そうじゃないというご意見もたくさんあるのは私も知ってます。知ってますけどあえて私が言うのは、オリンピックは国民みんなで楽しんでやるべき大会だと私は思います。

 それから最後になりますが、震災後の対応をどうなんだというお話ですが、これはたぶんね、評価が分かれるんですね。私の評価と、実際に被災をした町民の皆さん方の、私どもの判断というのはどう受け止められるかというのは、これはお互い立場が違うのでこれはある意味、評価が分かれるのは致し方がないと思っている、これ前提とお話。

 で、私、実はさっきちょっとお話ししましたけど、私も1960年のチリ地震津波で被災をして、私も疎開をしました、疎開って言葉あるの? 疎開をしました。1人で疎開しました、おふくろの実家のほうに。津波っていうのがどういうものかっていうことがずっと小学校3年生ですんで、トラウマでずっと残ってました。自分のうちが目の前でつぶれていったのを小学校3年生で見ていますから、あ、津波っていうのはこういうんだ、こういう被害になるんだ。そのあとにこういうことをしていかなきゃいけないんだっていうのを、私は子ども心にっていいますかね、ずっと残ってました。これはある意味自分としての、たぶん忘れられない原体験なんです。

 ですから、今回の東日本大震災の災害規模っていうのは、当時の災害とはもうスケールも桁外れです。とんでもない大きな災害でした。ですけど、津波という災害、そのものについての私としての体験はありましたんで、こういうときはこうすればいいっていうのかな、そういうのは非常にありました。ですから、首長の大変なのは、実はいろんな職員から、あるいはいろんな町民からさまざまな意見、要望が次々来ます。そこを大災害のあとは熟慮できないんですよ。ゆっくり考えてあとで結論を出しましょうっていうことができないんです。その場所で右か左かって判断しないと、白か黒かを決めてやらないと職員が動けないんですよ。グレーゾーンで答えを出してやっても職員は動けない。ですから白か黒かって決めちゃう。その白か黒か決めるときに非常に役だったのが、小学校3年生のときの原体験です。

 ですから私自身とすれば、判断の大きな間違いっていうのは、自分だけですよ、自分だけの評価なんですが、そう大きな間違いはしなかったのかなという思いがあります。