東日本大震災、津波、原子力発電所の大事故から5年が過ぎた。この5年の間に、何度も被災地へと足を運んできたが、5年の節目を迎えるにあたり、あらためて被災した各地を巡ってみた。

復興への遠い道のり【写真・文:村田信一】

宮城県の女川中学校生徒が考案した「いのちの石碑」。津波が来たときにどう行動すべきかが記されている。過去の津波のあとにも似たような石碑が存在していたが、時の経過とともに忘れ去られていた。今度こそは、いつまでも継承されていほしい 女川町(撮影:村田信一)

 福島県の浜通り。2014年に国道6号線が全線開通し、宮城県まで一気に抜けることができるようになった。1年以上前にここを通ったとき、持参した線量計のアラームが鳴りっぱなしの区間もあったものの、今回はそんなことはなかった。空間線量は下がりつつあるのだろうが、だからといって何かがよくなったわけでもない。目に見える光景は変わらず、それどころか、各所に積み上げられている放射性廃棄物の詰まったフレコンパックの山は高くなり、量も増え続けている。

 6号線両側に広がる家々は、以前と同じように建っているが、年々色褪せて傷んできているように感じる。人が出て行き誰も手をかけなくなると、建物は急速に傷んでいくが、ここでもそれは同じ。そして、いつか人が再び暮らす日が来るのかどうか。私の脳裏にはその情景を描けないでいる。

人間が暮らしてきた証として、神社などの信仰と歴史を物語る場は大切だ。このようなものが維持されず、また人々の記憶から消えていくときに、人間の記憶は途切れていく。この神社は幸いなことに困難な状況の中でも、しっかりと維持管理されている 飯舘村(撮影:村田信一)

 南相馬まで抜けると、まるで何事もなかったかのように町は活気づき、人々の暮らしが普通に営まれているように見える。西へ1時間ほど走ると、飯舘村に入った。震災前までは、飯舘村は理想的な田舎暮らしのできる素晴らしい村だったと聞いていた。飯舘牛でや質の高い米や野菜などを作っていた村。山間の自然豊かな地だ。

 震災後、全村が計画的避難区域とされ、現在でも村民の帰還は果たされていない。震災後に何度もこの地を訪れているが、来るたびに放射性廃棄物の山は増え続けている。本来は田や畑である場所に、黒い化学繊維製の袋が累々と拡がっている。村は人が住んでいないとはいえ、村民は度々やってきては、家の手入れや先祖の墓の手入れなどを行っている。共同墓地や神社などは、とてもきれいに清掃されている。だからこそすぐそばにある山積みの放射性廃棄物の異様さは際立っている。

 原発災害の影響でいまでも苦しんでいる人がいる地に来ると、自然環境と人間社会の共生をどう図るべきかを考える。原発の是非が論争になるが、この状況での議論はナンセンスだろう。大きな被害が生じ、たくさんの人々がいまでも苦難を強いられているという事実を認識したとき、どうするべきかはおのずと明らかだろう。