戦友3人と営庭にて。1941(昭和16)年6月初旬頃(タヒボジャパン(株)の「惜別」より)

笹川良一にスカウトされ、岩井証券(現岩井コスモ証券)の社長に就任した畠中平八(はたなかへいはち)は、数々の仕手戦を繰り返していきます。歴史的な事件といわれる”中山製鋼所事件”のときにも、畠中は軍師として采配ふるいました。

 しかし、その後の人生はすべてがうまくいくわけではありませんでした。そのよい人柄と取引の手腕で多くの人々に信奉されていた畠中でしたが、ついに相場界から身を引かなければならなくなりました。金も地位も捨て、畠中の掌に残ったものは「相場師としての誇り」だけでした。畠中の最盛期から晩年までの最後の相場師の生き様を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


用心深くて純粋な最後の”ジキ”

「北浜の平ちゃん」「最終の相場師」と呼ばれた畠中平八が岩井証券社長に就任(1969<昭和44>年)すると業績はうなぎ登りとなる。大阪証券取引所の売買高ランキングで上位10社に入ってきた。畠中ファンには大きな玉(注文)を出すセミプロのような顧客もいたから売買高は膨らむ一方である。畠中をスカウトした笹川良一の目に狂いはなかった。このころは笹川-畠中の蜜月時代である。

 北浜の仕手株が踊るときは、たいてい岩井証券が出動していると評判になる。当時の北浜では和光証券(現みずほ証券)の児玉富士男の名も鳴りわたっていた。2人の違いは児玉は相場師と呼ばれるのを嫌い、畠中は「最後の相場師」を自認していた。畠中がかつて属していた須々木証券(現日産証券)の須々木敏郎社長は畠中について「私は、これほど用心深くて純粋な人は知らない」とし、こう語っている。

 「戦前株屋の店主のことをジキといっていました。ジキは経営者であるとともに業界の世話から従業員、家族、お客さまの家庭のことまで面倒をみてきた人々でした。ジキは社長と名が変わりましたが、私はジキの称号を持ち得る最後の人が畠中さんだと思っております」(水野清文著『現代の相場師』)

投資家の美学

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