雨宮敬次郎(2列目の左)と家族、清水馨八郎監修雨宮敬次郎述『過去六十年事蹟』より

 「天下の雨敬」こと、雨宮敬次郎は歌にされるほど注目度の高い人気の経済人でした。生糸や洋銀(為替)相場などでは、大きくもうけることもあれば、大失敗することもありました。命をかけて臨んだ大胆な相場師ぶりは、いまなお語り継がれています。

 さらに雨敬といえば、軽井沢開発の先駆けとしても有名です。軽井沢の開墾は当初はもうけるつもりはなかったそうです。「他人より少し先が見える」と語った雨敬の投資家眼を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


  失敗に失敗を重ねながら成功の階段を上るのが雨敬流

 雨敬は1880年から1881(明治14~15)年にかけてのインフレ下で洋銀(為替)相場で大もうけするが、1881(明治15)年7月23日の済物浦事件(朝鮮内乱による日本公使館襲撃)で大暴落、それまでのもうけをすっかり吐き出すばかりか、借金を抱え込む。

 雨敬はこの時、家まで売って9尺2間の裏店住まいに逆戻りする。世間では「雨敬も今度ばかりは再起不能だろう」とうわさする。時に36歳。だが、失敗に失敗を重ねながら成功の階段を登っていくのが雨敬流の投機人生双六である。雨敬は次なる標的を公債に絞る。

 旧士族たちが換金のため投げ出してしまった額面100円の秩録公債(1882<明治6>年から1884<同8>年までに秩録を奉還した士族に交付した公債)が60円台に落ち込んでいるのを片っ端から仕込んでいく。そしてほどなく暴騰したから笑いが止まらない。

 「雨敬はスルのも早かったが、もうけるのも早かった。いつも明暗背中合わせでめまぐるしく七転び八起きでした。生糸相場、洋銀相場、雨敬は横浜で最も激烈な商戦に出て、命がけの相場を張った。そして勝っても負けても雨敬の心境は全く悲壮感というものがなかった」(小泉剛著『甲州財閥』)

   墓をつくるつもりで開墾した軽井沢

 公債を買いまくった雨敬は次には土地を買いまくる、東京はもとより、信州浅間山のふもとに広大な土地を買い開墾を始める。1882~83(明治16~17)年頃のことだ。当時、雨敬は肺をわずらい、血を吐いたから、もう長くないと観念し、墓場をつくるつもりで軽井沢に乗り出してきた。自伝に書いている。

  
  

【連載】投資家の美学