かつての司法省(法務省旧本館)中央正面外観

 霞ヶ関の一角に赤レンガの明治建築、司法省(法務省旧本館)が建っています。激動の幕末から維新を経たばかりの日本は、今後の国のあり方をめぐり、考えが揺れていました。日本が欧米諸国とどのようにかかわり、吸収してきたか。建築家であり、多数の建築と文学に関する著書でも知られる名古屋工業大学名誉教授、若山滋さんが、その象徴となったかつての司法省から、歴史を振り返ります。


都市化の残像

 霞が関の一角に、赤レンガの明治建築が残っている。
 法務省旧本館。明治28年(1895)竣工。かつての司法省である。

 一般の人には、東京駅と似たような印象であろうが、実は、この建築は東京駅とライバル関係にあった。それは同時に、官と民(学)のライバル関係でもあり、ドイツとイギリスのライバル関係でもあった。

 これまで述べたように、わが国の本格的な洋風建築は、明治10年のジョサイア・コンドル招聘に始まる。まだ20代半ばであったが、すでに英国で賞をとったエリートで、工部大学校(やがて帝国大学工学部)で教鞭をとって、何人かの建築家を育て、帝室博物館、鹿鳴館、ニコライ堂(実施設計のみ)、岩崎(三菱)邸などの設計を手がけた。本来なら、霞が関の官庁建築も、コンドルが設計しておかしくないが、そうはならなかった。

 そのころの明治政府には、洋風建築を強力に推進する政治家がいた。
 外務卿の井上馨である。長州の武士(さほど下級ではない)で、藩校の明倫館で学び、松下村塾には入っていない。幕末に、トーマス・グラバーなど英国商人の世話によって、ヨーロッパに渡り見聞を広めた「長州ファイブ」と呼ばれる若者たちの一人である。彼らはヨーロッパ文明の進歩性を目の当たりにして以後、攘夷と言いながらも開国派に転じ、維新後はそれぞれ重要な役職について、文明開化の推進役となっている。

 コンドルを招聘し、鹿鳴館を建設して、条約改正のために西欧風の外交を企てた張本人はこの井上である。そして明治19年、東京の中心部に官庁を集中させ、そのすべてを洋風建築とする計画を立てる。

 帝都としての威容を整えようとしたのだ。

 しかし、コンドルの建築はどこか東洋風の柔らかさがあり、威風堂々たることを求める政府の方針とは相容れなかった。そこで井上らは、ドイツの建築家、ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの事務所に、官庁を集中的に配置する都市計画と建築設計を依頼する。

 時勢というものである。

 このころから、日本の官僚組織や法律体系などが、ドイツを規範として整備されていく。法律と陸軍は初めフランスがモデルであったが、次第にドイツモデルに転換される。もちろん明治初期の日本にもっとも強く影響を与えたのは、当時もっとも先進的な力を有していたイギリスであるが、明治22年に施行された大日本帝国憲法も、プロイセン時代を含めたドイツ帝国がモデルであった。向こうは皇帝に、こちらは天皇に、力を集中させることによって中央集権を実体化するという共通目標があったからであろう。

 英国は議会を重視しすぎ、フランスは民権を重視しすぎ、先進的でありすぎたのだ。つまりこの明治20年代は、日本社会の近代化モデルが、英国やフランスからドイツへと大きく舵を切る時期で、のちの三国同盟への道は、すでにこの時から拓かれていたとも思える。