大阪株式取引所(大取)の第8代理事長に就任してからの島徳蔵は、戦略を導入し、大取の出来高を増やしていきました。一方、政治家と組んだ中国大陸での株式取引所設立で、まさかの展開に追い込まれるも、島はしぶとく関西財界、相場界から姿を消すことはありませんでした。

 策士なのか? 計画家なのか? 投資家としてしぶとく生き続けた島の黄金期から晩年までを市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


  大阪株式取引所に「短期取引」を採用

 1916(大正5)年、大阪株式取引所(大株)の第8代理事長に就任した島徳蔵は辣腕をふるう。折から欧州大戦景気で株価が乱舞し始め、市場は大にぎわい。就任直後はわずか700万円だった大株の資本金は4500万円に膨れ上がる。そして松井伊助や帯谷伝三郎らの発案を取り入れて「短期取引」を開始すると北浜の黄金期が到来する。

 「短期取引」とは売買約定して1週間以内に決済することになっているが、実際は乗り換えが自由で、「万年取引」などと呼ばれた。これを全国に先駆けて導入し、大株の経営が鮮やかによみがえると、全国各地の取引所でもこの「短期取引」を採用する。

 東京株式取引所(東株)と大株で長期取引と短期取引の出来高を比較してみよう。東株が長期中心であるのに大株は短期中心であることがはっきり分かる。数字は1927(昭和2)年上期の出来高(単位は千株)である。
  

【連載】投資家の美学

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