1911(明治44)年3月、伊藤伝右衛門と柳原あき子の結婚写真(白蓮事件書籍)

 デンネムこと伊藤伝右衛門は、炭鉱事業をさらに拡大し、古河鉱業との共同経営で大正鉱業を立ち上げます。この事業は成功し、教育機関への寄付も積極的に行いました。

 その後、贈収賄事件への関与、年齢差のあったあき子夫人との離婚なを経て、晩年は地元の政財界の重鎮として活躍しました。九州の炭鉱の繁栄から衰退までを見てきた投資家の人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

  
  古河鉱業と共同経営で事業を拡大

   伊藤伝右衛門の家庭生活は空疎なものに陥りがちであったが、伝右衛門の事業は着実に拡大の道をたどった。

 1914(大正3)年、伊藤は古河鉱業と共同経営で「大正鉱業株式会社」を立ち上げる。この会社は伊藤家が新手炭坑を現物出資し、古河鉱業は現金300万円を出資してできた。伊藤家は採掘を担当、古河鉱業が販売を受け持ち、社長には伝右衛門が就任した。古河は販売力に比べて出炭量が少なく、伝右衛門は販売力に乏しかった。そこで両者の補完関係が成立する素地があった。製販ギャップを埋める格好の組み合わせであった。

 「伝右衛門の石炭は、これまで若松の松川商店への委託と自営の伊藤商店でさばいてきた。ところが、伝右衛門の4炭坑の出炭はこの販売ルートでだけはさばき切れないほどに増大した。一方、古河は門司、若松、大阪などに販売所を置いていたが、こちらは伝右衛門とは反対に自前の炭坑の出炭量が少なく、他所から石炭を引き取りたがっていた」(宮田昭著『炭坑王伊藤伝右衛門』)

 この結果、伝右衛門は採炭に打ち込める体制ができ上がった。伝右衛門も証言している。

  

【連載】投資家の美学