1953(昭和28)年5月農林大臣官舎にて

 三井物産から独立して、船成金となった内田信也(うちだのぶや)は、的確な先見眼と判断力で、第1次世界大戦後に押し寄せた恐慌にも負けることはありませんでした。船成金は数あれど、内田がつぶれなかったのは、確実な経営者だったからです。

 内田の人生がおもしろいのは、10年周期でガラリと人生が変わるところです。海運業から政界へ、印象的な言葉とともに、にわか分限者ではなかった内田のロマンあふれる生涯を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


  内田は泡沫成金にあらず 「恐慌近し、手持ち品全部売払え」で難を逃れる
  


 第1次大戦後のパニック襲来で多くの船成金が元の歩に逆戻りする中、内田信也はしぶとく生き延びた。彼は泡沫成金ではなかった。

 「彼はほかの船成金と違って、見通しがよくきき、判断の確実な経営者であった。1920(大正9)年に恐慌の襲来を察知するや、素早く売船の手はずを整えた。当時、内田汽船のロンドン支店長だった北村正三郎(後に川崎汽船専務)に売船に関する現地相場の報告を求めた。同氏から『買い手38ポンド』という返電がきた。内田は他社も必ず売りに出て船価はもっと安くなると判断した。北村は内田社長が相場以下で売りに出た意味を把握できず、『電信間違いなきや』と問い返したほどであった。内田はこの決断によってたちまち5隻を処分して、3000万円の借金を返済してしまった」(梅津和郎著『成金時代』)

 内田がパニック前夜、いち早く所有船をロンドン市場で手放し、命拾いしたのにはわけがある。1920(大正9)年3月始め、時の首相原敬を訪ねた。用向きは総選挙を翌日に控え、選挙資金の提供の件であったが、原敬が内田にこんなことを打ち明けた。

 「経済界の様子がおかしくなったよ。茂木惣兵衛君に選挙資金を頼んでおいたのが、出せなくなったようだからね」

 茂木惣兵衛といえば横浜の財閥で「西の鈴木商店、東の茂木合名」と並び称されるほど勢いのあった商社。それが資金に窮しているとあっては財界の前途はただごとではない。

 内田は直ちに欧米、インドなど各地の支店に電命を発した。

 「Panic will be soon,dispose off all your goods in your hands」(恐慌近し、手持ち品全部売払え)

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