写真はイメージ(提供:アフロ)

 作家・松本清張原作の『黒革の手帖』の再ドラマ化が話題となっています。連続ドラマのほかにも清張作品は繰り返し映像化されていますが、その多くは推理小説やサスペンス色が強いものが中心です。清張の人気を不動にしたのは間違いなく、それらの作品だといえます。

 生活のために書いた処女作「西郷札(さいごうさつ)」から「神々の乱心」まで、清張の作家人生を振り返ると、さまざまなジャンルの小説を書いていたことがわかります。当初は推理小説とは違う表情を見せていた清張作品はどのように評価され、変遷していったのでしょうか? ノートルダム清心女子大学文学部教授の綾目広治さんが解説します。

【連載】松本清張作品から「いま」を読み解く

作家としてのスタートは純文学だった

 意外なことに思われる向きもあろうが、松本清張は「或る「小倉日記」伝」(1952年9月)で第28回の芥川賞を受賞した芥川賞作家なのである。つまり、その文学的スタートにおいては、いわゆる純文学の小説家として評価された作家なのであった。にもかかわらず、以後の清張は多くの推理小説やサスペンスなどを書き、一般には大衆文学とりわけ推理小説の作家として知られる存在になったのである。

 そのことに関して松本清張は、文芸評論家の平野謙との対談「私小説と本格小説」(『文藝春秋』、1969年6月)の中で、「自分が推理小説家になったのは、自ら意志してというよりも、むしろ周囲がそう仕向けたのである」と述べ、次のようなことを語っている。

 「たとえば平野謙さんが『点と線』(1957年2月~1958年1月)からではなく、その前の「風雪断碑」(後「断碑」、1954年1月)や「石の骨」(1955年10月)あたりから評価してくれていたら、自分は推理小説に手を出すことはなかったと思う」と。つまり、推理小説の『点と線』が平野謙たち評論家から高く評価されたために、自分はその後に推理小説の方に筆を傾けたのであって、もしも『点と線』以前の小説が評価されていたら、推理小説の方には進まなかったかも知れない、というのである。

 この発言は推理小説家として成功の絶頂にあった作家の、得意な気持ちも少々込められた謙遜の言葉として考えてはならないだろう。清張は、推理小説家は必ずしも自らが望んだ道ではなかった、と本気で思っていたのである。たしかに芥川賞受賞後の数年間に書かれた小説は、中には「張込み」(1955年12月)や「声」(1956年10月~11月)などの推理小説的な物語もあるが、推理小説に留まらない、領域の広さ多様さにおいて後に大きく開花することになる、清張文学の様々な可能性を、短編小説の上で試みたものであったと言えよう。この時期は、後の清張文学の開花のための、そのウォーミングアップの時期であった。

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