このところ、食費を節約する方法をめぐってネットで論争になるケースが増えています。工夫すればいくらでも節約できると主張する人に対して、貧困にあえいでいる人は、節約するための道具や時間を確保することすらできないと反論しています。果たしてどちらが正しいのでしょうか。

「低所得層」とは、どのくらいの収入の人たちのことなのか

カップ麺は贅沢品なのか?

写真:アフロ

 漫画原作者の小池一夫氏が、自身のツイッターで、今の若者に対して「食費にお金をかけられないのは言い訳だ」「やれば出来る。やらないだけ」として、妻が数百円で作ったという鱧のおすましの写真をアップしたところ、ちょっとした炎上騒ぎになってしまいました(小池氏はその後、若者の実態が分かっていなかったとして反省するツイートを出しています)。

 今度は、都民ファーストの会で一躍有名になった東京都議会議員の音喜多駿氏が、「カップ麺を食べている」として貧乏生活をアピールした舛添要一前東京都知事に対して「カップ麺など贅沢品」「本当にコストをセーブできるのは米とパスタ」であると主張しました。音喜多氏がもっとも主張したかったのは、舛添氏は本当に貧乏な生活をしているのか? という部分だったと思われますが、「カップ麺は贅沢」だという話には一部から批判の声が寄せられました。

生活に余裕がなければ、工夫をすること自体が難しい

 小池氏や音喜多氏の主張に共通しているのは、知恵や知識を使えば、いくらでも節約はできるという考え方です。確かにその通りであり、食材の価格をしっかりと調査する、安い時に買いだめする、料理の仕方を工夫する、といった努力をすれば、インスタント食品やファストフードよりもはるかに安く食事を作ることができるでしょう。

 しかし、この話には大きな矛盾があるのも事実です。そもそも生活に余裕がなければ、こうした工夫をすること自体が難しいからです。お金や時間がない人にとって食材や調理器具を揃えることは至難の業ですし、ゆっくり料理したり、そのスキルを磨く時間もありません。

 小池氏に至っては奥さんの手料理ですから、奥さんが手料理を作れるという段階でかなり裕福な部類に入ります。最低賃金水準で長時間労働をこなし、疲れ果てた状態で家に帰った人にとって、もはやカップ麺を食べるくらいしか気力は残っていないかもしれません。

 一連の話については、どちらが正しいと争うのではなく、もっと建設的に捉えた方がよいと思われます。すべての人がそうではありませんが、経済的に厳しい状態にある人は、そこから抜け出すチャンスを得ることそのものが難しいという現実があります。逆にいえば、こうした工夫ができるよう支援することこそが、本当の意味での支援ということになるでしょう。
 
(The Capital Tribune Japan)

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