日本が戦後復興、高度経済成長へ向かう中、世界は米ソ冷戦のただ中にあった。核戦争の火種がくすぶる抜き差しならぬ状況下、核・原子力は石油に代わる「夢のエネルギー」として注目され、技術は長足の進歩を遂げる。

 日本を除く先進各国は当初、核の軍事利用と平和利用の両方を掲げた。今回は、世界で動き出した原子力開発と、1950〜1970年ごろの日本での胎動期を振り返りたい。

エネルギー小国日本の選択

米ソ対立、原子力開発競争

現セメイ(セミパラチンスク)の博物館における原爆実験の展示(写真:ロイター/アフロ)

 第2次世界大戦後間もなく、世界はアメリカを中心とした西側諸国と、ロシアをはじめとする旧ソビエト連邦(旧ソ連)との両陣営の主導権争いが激しくなった。資本主義対社会主義、共産主義のイデオロギーがぶつかり合う時代でもあった。

 各国は日本に投下された原子力爆弾に脅威を覚えた。核を持つことで他国の核使用を封じようとする「核の抑止力」という言葉も出始め、原子力の研究開発が加速度的に進んだ。

 マンハッタン計画で原子力の軍事利用を推し進めたアメリカでは、徐々に平和利用、つまり発電などへの利用が普及していった。1946年に原子力法が制定され、その第1条で「軍事目的と並んで平和目的にも利用することができる」と規定されている。1947年に原子力委員会(AEC; Atomic Energy Commission)が発足し、組織立っていった。

 もっとも科学者たちは、戦時中に原爆を使わぬよう求める大量の書簡を大統領宛に送るなど、軍事目的に与(くみ)する原子力の研究開発に距離を置く者は少なくなかった。原子力法が成立する過程の法案は、軍人を含む委員会での原子力の設備運営、研究指揮などが盛り込まれ、科学者の賛同を得られなかった。議会を通じて修正が重ねられてきた経緯がある。

 アメリカに後れを取るまいとソ連は対応を急いだ。1945年に国防委員会が原爆の開発に当たる第一総局を設けた。1949年には現カザフスタンに当たるセミパラチンスクで原爆実験に成功。さらに1954年、世界初となる原子力発電所をモスクワから100kmほど南西にあるオブニンスクで運転開始した。