チャーリー・パーカー(William P. Gottlieb)

 ジャズの魅力のひとつには、即興演奏の素晴らしさがしばしば語られます。ジャズが誕生した1917年当初の演奏は、今とはまた違った雰囲気でした。それではいつごろ、どこで「ジャズ=即興演奏」が確立していったのでしょうか。ジャズ評論家の青木和富さんが解説します。

【連載】青木和富の「今夜はJAZZになれ!」

ジャズ・ミュージシャンがたくさん登場する映画『カンザス・シティ』

 1996年に公開されたロバート・アルトマン監督の『カンザス・シティ』は、たくさんのジャズ・ミュージシャンが登場し、ファンの間で話題になったが、とはいえ、これはジャズ映画というわけではなかった。カンザス・シティはアルトマンが生まれ育った街で、映画の時代は1934年というから、アルトマンが9歳の頃ということになる。けれどこれも、時代考証を厳密にしたわけではないので、どうでもいいことかもしれない。重要なのは、この時代、シカゴのアル・カポネに対して、カンザス・シティにはトム・ペンダーガストという事業家、フィクサーがいて、悪政が蔓延していたのである。禁酒法の時代でも、カンザス・シティは、公然と酒が供されたし、ナイトクラブが繁栄し、そんな環境で新しいジャズのエネルギーも生まれたということになる。欲にまみれた人間たちの抗争劇とその背景を彩るジャズというのが、この映画の世界である。余談だが、酒とたばこの規制の甘さは、今でも全米一とされている。これらの背景には歴史的にもこの地域が酒とたばこの一大生産地ということもある。

テリトリー・バンドの活躍

 カンザス・シティは、面白い街で、ミズーリ州とカンザス州にまたがり、繁栄したのはミズーリ州の方で、カンザス州側はその郊外都市という位置にある。とはいえ、ミズーリ州とカンザス州、さらにその左のオクラホマ州は、全米の地図でみると、そのほぼ中央に位置し、東西南北の交通の要と言ってよく、これもカンザス・シティの繁栄の要素になっていて、人々が行き交う。そして、彼らの遊興の伴とも言うべき音楽隊も、要望があれば、その街に移動する旅するバンドだった。これをテリトリー・バンドといい、こうした地域を根城にするバンドが全国にあった。

 映画『カンザス・シティ』は1934年という設定だが、このとき、カウント・ベイシーは、ベニー・モーテン楽団の団員で、この翌年モーテンが他界し、ベイシーがこのバンドを引き継ぐことになる。ベイシーは、東部のニュージャージー州の出身だから、この当時の旅がらす的なミュージシャンの動きが、容易に想像できたと思う。

 しかし、こうしたバンドのヘッドの交代が、何故簡単に行われたのだろう。その理由は単純で、こうしたテリトリー・バンドは、むしろ共同体といった方がよく、リーダーは互選で決められることも多かった。そもそもこのベイシー・バンドは、1920年代にベースのウォルター・ページが仕切ったオクラホマシティー・ブルー・デビルズというバンドが起源とされている。このバンドにはサックスのレスター・ヤング、ベイシー、そして、歌手のジミー・ラッシングら、その後のカンザス・シティ・ジャズの名手とされる人々のほとんどが参加していて、そのスタート時のバンド名からして、当時のテリトリー・バンドの活動範囲の広さが分かる。1930年に入り、こうしたメンバーをカンザス・シティを拠点とするベニー・モーテンが引き抜き、最後にはページも参加して、最強のモーテン・バンドが生まれたが、モーテンは作曲をする人で、そういう意味で、演奏家の個性のせめぎあいから生まれるカンザス・シティ・ジャズの本来の楽しさとはちょっと違った世界でもあった。

 モーテンの死後、このバンドを引き継いだベイシーは、簡単に言えば、バンドをそれまでのカンザス・シティ・ジャズのスタイルに戻したと言えるかもしれない。このバンドのアンサンブルは譜面がなく、ほとんどがヘッド・アレンジと言われる簡単な約束事で決められている。ソロイストをアンサンブルでバックを支えるのも、リフと呼ばれる簡単、シンプルなメロディで即興的に行われるというもので、それは譜面が読めないメンバーでも可能なワイルドなアンサンブルであった。しかし、こうして生まれたスイング感は、ジョン・ハモンドたちを新しいスイングとして驚倒させたのだ。基本は徹底してひたすらタイムをキープする4ビートのリズムで、これは1937年のギターのフレディー・グリーンの加入で完璧になる。ページのベースも徹底して4拍を打つだけだが、グリーンはバンド参加以来、生涯に渡ってリズムを刻むだけで、一切のソロを残さなかったことでも有名だ。

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