時事画報社「フォト(1961年11月1日号)」より

 第2次世界大戦後の大阪・関西を代表する経済人、杉道助は綿糸などの繊維を扱う八木商店を営んでいました。戦争や関東大震災で事業の浮き沈みを体験したかと思えば、「経済と政治は表裏一体」と語る大学時代の先輩の政界進出を支援して、想定外の方向へ展開します。序盤から波乱に満ちた杉の投資人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

【連載】投資家の美学

第1次世界大戦後のバブル崩壊で会社が破綻

 大阪財界の巨頭、杉道助の生涯は波乱に富んでいる。最大のピンチは第1次世界大戦後の1920(大正9)年、バブル崩壊で会社が破綻に瀕したときであろう。

 そのころ杉は名門繊維商・八木商店の専務として采配をふるっていた。杉は日経新聞連載「私の履歴書」で述懐している。

 「ブームの時は物が上がる一方だから商売は楽だ。会社の上役はお召の衿などはいて自動車で乗り回し、われわれ若い者もかなりだらけていた。その膨れ上がった取引が戦争後の反動でグッとしぼんだのだからたまらない。特に大きな打撃を受けたのが綿糸布の取引だ」

 1コリ(400ポンド=181.4キロ)800円以上という空前の高値を呼んでいた糸価が一気に350円台にまで暴落、大阪三品取引所は立会停止に追い込まれた。横浜や神戸の貿易商がバタバタ倒産した。飛ぶ鳥を落とす勢いの横浜の茂木合名が破綻するものこの時だ。綿業界は先物取引が盛んで紡績、糸商、機屋の間で長期契約が行われていたが、あまりの大暴落で決済不能になり、業界始まって以来、初の総解合(※)が行われた。

 ※総解合(そうとけあい)市場で結ばれた売約定の全部が売買双方の合意のうえ、または取引所関係者多数の合意により半ば強制的に解かれること。こうした解合は非常時に行われるもので、1920(大正9)年春の恐慌時や同12年関東大震災時に行われたことがある。

 糸を売った紡績、それを買った機屋、その中間にある糸商(問屋)の三者が話し合い、建値(棒値と呼んだ)を決めて、先に約定した価格との差を出し、紡績はその6割を切り捨て、機屋は7割を切り捨てるという荒療治である。

「つまりその間に立つ問屋は機屋や貿易商からは3割の金を受け取り、紡績会社に4割の金を払うというもの。この差額1割の集積は大きかった。八木商店の1920(大正9)年度決算は大きい赤字を出し、八木家は私財100万円を投げ出し、会社の欠損を補った」(「杉道助の生涯」)

 それだけでは足りなかった。大量の書画、骨董を売り払い、従業員の人員整理も余儀なくされた。杉は5年前帝塚山に建てたばかりの自宅も売り払い、天下茶屋に家を借りたが、以後2、3年は借家を転々とした。

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