「3位、中央大学」のコールが響くと、選手たちは喜びを爆発させた。そして、800人もの大学関係者から温かい拍手が送られた。名門といえども、一度“地獄”に落ちると、簡単には抜け出せないのが近年の箱根予選会。そのなかで、中大は、1年で華麗なる復活劇を見せた。

 第92回大会(16年)まで87回連続で箱根駅伝に出場、優勝回数は最多14回。栄光の箱根駅伝でナンバー1の実績を積み上げてきたのが中大だ。第65回大会(89年)から第78回大会までは4位が最低成績で、その後も「連続シード」を守ってきた。しかし、第89回大会(13年)でまさかの途中棄権。28年連続シードがストップすると、前回ついに伝統の赤タスキが途切れる。日大に44秒届かず、予選会で落選という悪夢を味わったのだ。

 今回も1万mでチーム2番目のタイム(28分56秒00)を持つ二井康介がエントリーから外れるなど、予選突破は簡単な状況ではなかった。だが、就任2年目の藤原正和駅伝監督が「12人全員がプラン通りに走ってくれました」と称賛するほど、選手たちの予選会での20kmレースは圧巻だった。

 フリーで攻め込んだ中山顕、舟津彰馬、堀尾謙介の3人が59分台で駆け抜けると、5人が60分台で、残りの4人も61分台でフィニッシュ。上位10人の合計タイムは10時間06分03秒で、堂々の3位で予選会を突破した。それは名門が苦しめられてきた“負の連鎖”を断ち切った瞬間だったと言っていいだろう。

 中大が急降下した原因のひとつとして、入学してくる選手の質が落ちたことにある。箱根駅伝で上位にいたころは、常連校の中でも中大のブランド力は輝いていた。しかし、大学のネームバリュー、偏差値が同程度の青学大と明大が箱根で活躍するようになり、選手の“流れ”が大きく変わったのだ。それだけでなく、選手のなかにあった「甘さ」も徐々に大きくなっていった。昨年4月、世界選手権の男子マラソン代表を3度経験した藤原監督が母校に戻ってくると、チームの実情に失望感を抱くほどだった。

「4月に入ってきたときの雰囲気は、同好会並みでした。本当にちょっとずつなんですけど、良くない方向に進んでしまった。人間は楽な方に流れます。長い年月をかけて、結果が悪くても、徐々に許されてしまうような雰囲気になっていたと思います」

 生活面での「緩さ」でいうと、22時までの門限を過ぎてもいい日が月に4回もあったため、それを月1回に変更。藤原監督が学生時代には認められていなかった原付バイクの使用も3・4年生はOKになっていたが、それも禁止した。そして6月の全日本大学駅伝予選会で惨敗して、藤原監督はある決断をする。当時1年生だった舟津彰馬を主将に抜擢したのだ。

 

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