●まともなグラウンドがなく長距離移動が必要

[図]「『冒険世界天幕旅行大運動会』(1908年7月)に見られるオリンピズム」 フェリス女子大学国際交流学部 和田浩一教授による「日本体育学会第26回記念大会」(2011年9月25日)発表のレジュメより抜粋

 当時、運動会をするには徒歩で長距離移動する必要があった。むろん「天幕旅行大運動会」も遠足の体裁を取った。というのも当時の日本にはまともなグランドがなかったからだ。学校にも運動する場所はない。広いところと言えば、神社の境内(当時の神社の敷地は今よりも広かった)や河原、海辺、丘などしかなく、運動会をするには徒歩で長距離移動しなければならなかった。つまり運動会は遠足も兼ねていたのである。

 小学校で運動会をする際も現在のように学校単独の行事として行われたわけではない。数校が合同で開催し、地域の人々も観戦する大きな娯楽だった。当時の記録を読むと、我が子の自慢と遊山をかねた父兄が華美な服装に身を包み、重箱詰のご馳走を携えて押すな押すなで観戦に出かけていたことが分かる。運動会は地域の祝祭だったのだ。この運動会の存在がオリンピック理解の助けになったのである。

 この当時のスポーツはまだ「学校を代表して」とか「国の名誉をかけて」などという仰々しいものではなく、精神修行や人間教育のために行われていた訳でもなかった。「健康増進のため」に、「遊技」や「娯楽」として行われていた。

●「軍隊化」の進展で「遊戯」から「体育」へ

[画像]1916年に行われた「東洋オリンピック」のトライアル大会

 やがて文部省の指導による「児童の身体の軍隊化」が進展するに従って、スポーツは「遊技」から「体育」になり、娯楽性は退潮していく。「天幕旅行大運動会」はスポーツに国家が関与する以前の、純粋な娯楽のままの姿で、まだ見ぬオリンピックを模したイベントだった。

 味を占めた押川春浪は翌1909(明治42)年も運動会を企画する。『少年世界』誌と共催の「振武大競走」だ。靖国神社から王子の飛鳥山まで徒競走するというものだったが、治安維持のために麹町警察署によって中止させられてしまう。横田純彌・会津信吾・共著『怪男児押川春浪』(パンリサーチ インスティチュート1987年)によると、「労働運動の街頭行動を牽制するのが、当局の真の目的」とのことで、運動会の名目で自由民権運動の政治政党がデモ行動を行った「壮士運動会」の煽りを食ったらしい。

 このようにオリンピック開催への最初の一歩は、メディアがしかけた運動会という形を取ったのだった。


■檀原照和(だんばら・てるかず) ノンフィクション作家。法政大学法学部政治学科卒業。近現代の裏面史などを追う。著作として単著に『ヴードゥー大全』(夏目書房)、『消えた横浜娼婦たち』。共著に『太平洋戦争―封印された闇の史実』(ミリオン出版)

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