[画像]大阪で開催された第6回「東洋オリンピック」大会のポスター

 東京五輪・パラリンピックまで残すところ1000日を切った。さまざまなメディアがオリンピックに関する歴史や展望を書き連ねている。しかし日本でオリンピックが開かれるようになるまでにどのような試行錯誤が行われたのか、ほとんど知られていない。特筆すべきは、1940年の「幻の東京五輪」に先立って予行演習的なスポーツ大会が実施されていたことだ。歴史の闇に消えた「東京オリンピック前史」を3回連載で掘り起こしてみたい。

【画像】五輪どころか「運動」の概念も乏しい時代~幻のオリンピック前史(中編)

●ストックホルム五輪選考会で二人は出会った?

[写真]嘉納治五郎の写真を背に行われた2008年北京五輪の柔道代表の壮行会(アフロスポーツ)

 東京オリンピックへの動きは政府主導で直線的に動いたわけではなかった。

 西洋史の本に書かれた古代オリンピックの知識しか持ち合わせていなかった明治期の日本人。西洋から入ってきた運動(スポーツ)という文化と折り合いをつけることにさえ難渋していた当時の日本では、オリンピックとの接近は民間主導で始まった。

 これまでに触れてきた通り、「少年冒険小説の開拓者」こと押川春浪(おしかわ・しゅんろう)による「天幕(テント)旅行大運動会」(1908年)の開催、これがすべての始まりである。「東洋オリンピックの瀬踏み」と銘打ったイベントだったが、その実態は雑誌主催の大がかりな運動会だった。

 その翌年にあたる1909(明治42)年、「柔道の父」嘉納治五郎(かのう・じごろう)がIOC委員に任命されている。

 ところが当時の日本政府はオリンピック開催に無関心で「やるなら勝手にやってくれ」という態度を崩そうとしなかった。原因は国際オリンピック委員会(IOC)が民間組織だったからで、“お上意識”が強い日本政府は、いくら国際的とは言え一民間組織にすぎぬIOCを歯牙にもかけなかった。外務省の公式記録にはじめてオリンピックが出てくるのは1914(大正3)年。「万国体育大会雑件」という記録文章においてであった。日本がストックホルム大会(1912年)でオリンピックに初参加してから2年も後の話である。

 ストックホルム五輪に向け、嘉納は1911年に派遣選手選考会を東京の羽田運動場で開催する。国からの援助も後押しもない中で、嘉納は金策に走り回った。

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