大江卓

 政財界で幅広く活躍した大江卓は、米相場では大物相場師として名を轟かせていた人物に一泡食わせたことが有名です。未練を残しつつ実業界に入ったのちは、東京株式取引所の頭取に抜擢され、やがて理事長に就任し、公平性に問題のある取引所条例の改正に挑みます。やがて政界への返り咲きをもくろみながらも、業界改革に熱い情熱を傾けた大江の活躍を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

【連載】投資家の美学

米相場で「天下の糸平」をハメる

 1877(明治10)年ころの日本橋界隈で「天下の糸平」といえば、大相場師として雷名がとどろいていた。いや、教科書にも出てくるほどの人物だから、全国に知られていた。その糸平が大江卓を訪ねてきた。

 糸平「近ごろ、あなたは坂本町の米市場で大分米を買っているようだが、一体これからどのくらいお買いなさる肚ですか」

 大江「……」

 糸平「私も相場師だ。あなたがそれを話してくれるなら相当な謝礼をしましょう」

 大江「さすが天下の糸平だ。あなただけに話するから1万円出してくれるか」

 これにはさすがの糸平も驚いた。押し問答の末8000円で手を打った。糸平は即座に8000円の小切手に署名捺印して大江に渡した。そして大江が言った。

 大江「もう、これ以上は買わぬ」

 これには糸平、怒るまいことか。この若造がペテンにかけやがって、馬鹿にするのもほどがある、とすごいけんまくだった。しかし、そこは糸平、気を取り直して「大江がもう買わないなら米は売りだ」との確信を得た。糸平は先物相場を売りまくる。この売りで3万円ほどもうけたというからさすが糸平だ。

 大江は糸平からせしめた8000円で米の買い占め費用を補うことができたが、既述のロンドンへ廻米を企てた結果の損失までリカバーできたがどうかは定かではない。

政界を去ったあとは実業界入り 東京株式取引所に頭取に

 さて、1892(明治25)年の第2回総選挙では、大江は落選、これを機に政界を去り、実業界に入る。大江は同年1月東京株式取引所に頭取(のち理事長と呼称変更)就任、1899(同32)年金子堅太郎にバトンタッチするまでの7年間、采配をふるった。大江は後年述懐している。

 「政治、政治と言ったところで、一に金、二に金、三に金である。そこでわが輩はひとまず実業界へ乗り込んだ。しばらく富を作り、他日捲土重来に備えるために……」

 当時の株式取引所は、日本の近代化が進み、鉄道建設などインフラ投資も盛り上がり、新しい会社が次々に誕生、上場銘柄が急ピッチで増強されていた。1887(明治20)年公布の「取引所条令」(いわゆるブールス条令)下にあり、新時代に対応するためには条令改正へ向けて機運が高まっていた。

 大江を頭取に迎えたのも、その人脈を買ってのものだった。農商務省のトップは大江の岳父後藤象二郎であった。大江自身は資金を作れば政界に戻りたいと考えていたから業界とは同床異夢を結んでいたが、いざ就任してみると、熱い業界の期待に直に接し、業界改革に情熱を傾けた。

 大江はもともと弱者の側に立つことを信条として生きてきた「叛骨の士」であったから、当時社会的地位の低かった株式仲買人たちの信望は厚かった。

 「東株頭取に就任したばかりの大江は取引所をして株式組織の健全なる発達に期さねばならぬというので、これの改正を絶叫した。各地の取引所と呼応して改革運動を起こし、取引所法改正案を帝国議会に提出したのであった。大江は時の首相伊藤博文はじめ閣僚の後藤象二郎、陸奥宗光、井上馨の諸公とは十分旧来の交誼を持っていたので、改正法案は見事に通過した」(『財界ロマンス』)