写真はイメージ、提供:アフロ

 1960年代後半、ウォール街の米国証券会社に直接雇用される日本人は珍しかったといいます。1973年代に、著者が勤務していたバーナム・アンド・カンパニーが伝統あるドレクセルと合併し、ドレクセル・バーナムと名前を変えます。

 今回は第2次世界大戦終戦からベトナム戦争、そして飽和状態にあった米国は証券不況時代へと向かい、ウォール街の業界再編成時に注目されたのは「日本株」でした。海外からの日本株への投資熱が、今度は日本の金融の国際化を促します。

【連載】ウォール街回想記

OECD入り後、日本の為替・金融は自由化へと向かう

 戦後の復興支援企画として1948年に米国を中心に欧米諸国20カ国が原加盟国として経済協力開発機構 (OECD) が発足しました。日本も先進国の仲間入りを果たす目的で早い時期から加盟を望み、東京五輪開催の1964年に原加盟国以外で一番乗りのOECD 加盟を果たしました。以後、日本は急速に自由化を推進しましたが、多額の国際収支赤字を抱える中、為替や金融の自由化は段階的に実施されました。

 海外からは日本株投資の人気が高まり、同時に日本の金融機関も国際化の一環として、海外投資を模索し、1971年に海外証券投資の自由化が実現しました。それに先駆けて、日本の金融機関はニューヨークの証券会社や金融機関へトレーニーとし派遣し、株式投資の国際化が躍進しました。当時日本からニューヨークやロンドンには日本の金融機関も海外拠点を設け、同時にトレーニーなどを含め多くの派遣者を擁し、日本の金融の急速な国際化に大きな貢献を果たしました。就職先のバーナムも、日本の大手金融機関からトレーニーを受け入れ、その多くの人は後に成功者として活躍しました。バーナムでの研修は調査部を中心に株式市場と銘柄分析で、当時から日米間の株式市場比較論が盛んとなりました。彼らとは、銘柄分析等で喧々諤々と議論を交わせた記憶は今でも鮮明に残っています。

日本の株式市場は続々、国際基準へ

 海外証券投資の自由化に伴い日本の株式市場の評価や慣行も急速に国際基準に移行しました。日本の上場株は、電力のような公共企業は例外として、従来額面は50円と決められ、株価や配当は額面を基準とした価格で語られていました。従って額面に対し配当が10円であれば、配当率は20%となり高配当会社の評価を受けました。そして、増資を実施すれば、基本的に額面価格とし、極めて資本効率の悪い慣行が横行していました。そこで、今では常識の株主の持分に応じた資本配分方法を急速に採用することとなりました。

 現在は時価発行や配当性向など、株価の時価が資本政策判断の基準であり、額面を基準とした株式市場は遠い過去のものとなり、今や死語となっています。しかし、額面基準で証券取引が行われ、そのルールは分かりやすく設定されたというメリットもあります。上場株の取引は株価如何に関わらず、1000株が単位となっていました。株価はどうであれ、単位株は単純に1000株です。ところが時代の経過とともに、一部の一株当たりの株価が非常に高くなったり、株価の落差が拡大し、一般投資家の取引を安価でも可能とする目的で、今や、取引単位は1株なのか、100株なのか、1000株なのか調べなければならなく、混乱をもたらしています。

  このように、日本の株式市場が国際基準に移行する過程では、日本株投資で大きく儲けるチャンスも提供されていました。株式市場で増資は、既存株主の持分を増資額分引き下げますので、増資発表はほぼ例外なく株価を下げる要因となっています。

 ところが、日本では長らく増資は株価を引き上げる行為と思われていたため、増資発表は大いに好感され、株価を釣り上げました。そして増資後は発行株数が増大し、株価が下がるのが常識でした。そのような市場習性に対し、海外投資家はその逆取引をして簡単に裁定の利益を得ることができました。