貝島太助『憲政50年史』より

 明治期に活躍した貝島太助(かいじま・たすけ)は石炭成金の一人として有名ですが、事業ははじめから順風満帆ではありませんでした。幼いころから家計を助けるために炭鉱を掘りをしていた苦労人で、成功談よりも、どん底から這い上がる姿がたくましく、多くの人を惹きつけているのでしょう。まずは、何が起きてもあきらめなかった貝島の人生の前半戦を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

【連載】投資家の美学

石炭界の巨人、黒ダイヤ四天王と呼ばれた貝島という男

 石炭がエネルギー資源の王様であった時代に石炭界の巨人としては貝島太助、麻生太吉、安川敬一郎がよく知られ、石炭成金3人男と呼ばれた。この3人に伊藤伝右衛門を加え、「黒ダイヤ四天王」と呼ばれたこともある。中でも貝島の実力と人気は他を圧していた。『現代富豪奮闘成功録』(岩崎錦城著)は貝島をこう評している。

 「東に銅山王古河市兵衛あり、西に石炭王貝島太助がいる。いずれも徒手空挙より奮闘してついに東洋一の大鉱業家と畏敬せられるに至った。波濤はなはだしき貝島の境遇は、あたかも小説の如く、いくたの災いを転じて福となせる彼の勇気と機敏にして先見に富める氏の活躍ぶりは当代の実業界では稀有である」

 1897(明治30)年、貝島が53歳のとき、早くも『貝島太助君伝』という伝記が出版される。そこには「鉄のような腹わたと石の心臓を持った怪物だった」とし、こう記されている。

 「8歳にして初めて坑内に入り、50歳余にしてついに鉱業界の泰斗となる。ひとたびその風貌を見れば、異彩常に耳目の間に横たわり、心気鎮静にしておのずから卓犖(たくこく。際立って優れていること)、有為の人物たるを知るべし。ああ、これ鎮西(九州)の傑士貝島太助君なり」

炭鉱一筋の人生

 13歳のとき、家計に余裕ができて近くのお寺の住職に弟子入りするが、勉学をきらい、もっぱら炊事洗たく係を受け持った。貝島にはやはり炭坑がよく似合う。弟ともども再び炭坑夫となり、結婚したのちも共働きで少しずつ資金をたくわえていった。1870(明治3)年、26歳のとき、念願の鉱山を手に入れた。太助みずから頭取兼抗夫として、人夫の先頭に立って堀り続けた。

 やがて西南戦争が勃発して炭価が暴騰する。太助は昼夜兼行で堀りまくり、仲買人たちは売り手の言い値で飛び付いた。たちまち2500円からの大金をつかむ。これから貝島太助の大ジャンプが始まる。長崎から蒸気機関車を取り寄せる。ツルハシとモッコの炭堀り時代とは様変わりである。ところが、好事魔多し。新鋭機が爆発事故を起こすと同時に西南戦争が終結する。炭価は一転大暴落、1879(明治12)年10月、とうとう破綻、鉱区を手放し、元の出稼ぎ人に戻る。この時39歳、まだまだやり直しは利く。

 天は太助を見捨てなかった。失意の太助に幸運の女神が微笑みかけるから人生はおもしろい。東京の帆足義方という金満家が筑豊地区で炭坑を買収、共同経営者を探していた。そんな時、太助に一緒にやらないか、と耳寄りな話。2人は意気投合、帆足の資金力と現場を知る太助の実践力がかみ合って、次々と鉱区を拡充していった。

 1884(明治17)年、筑豊随一といわれた良質の大之浦炭坑を手に入れる。太助の名は九州はおろか、京阪神地区でも知れ渡り、大口注文が舞い込むようになる。おりしも全国的に鉄道敷設熱が盛り上がる一方、各種工場建設で石炭消費はうなぎ登り。1887(同20)年は金融引き締の影響や石炭の掘り過ぎで炭価は一時的に暴落するが、太助の奮闘心はびくともしない。逆境には奮い立つのが太助である。

 「百折屈せず、孜々(しし)として努め、意気いよいよ軒昂、おびただしい債鬼(借金取り)にひるむことなく、かえって鉱区を拡張し、三井、三菱の先進財閥に拮抗する姿をみせた」(実業之世界社編『財界物故傑物伝』)

 1889(明治22)年、太助は多額の借金を抱えていたが、あえて豪邸の建築に着手する。5万坪の土地に3階建て700坪の邸宅、門には「百合野山荘」というバカでかい表札を掲げた。

 「雲をついてそびゆる大廈(たいか、豪壮な家)」と表現した資料もあるほど。この大見栄を張った邸宅が意外な幸運を呼び込むから人生は分からない。

 1890(翌23)年、政界の大物井上馨伯(のちに候爵)が耶馬溪の名勝を探策し、太宰府に参拝に赴く途中、直方を通り過ぎようとして、太助の豪邸が目に入る。あまりの大楼に驚いた井上は従者にただした。

 「こんな田舎で、これほどの豪邸を建てたのは一体、どこのだれだ」

 これが貝島と井上馨との初めての出会いで、これから井上の力添えで太助の後半生はにわかに輝きを増していく。=敬称略

【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 

■貝島 太助(1844-1916)の横顔
弘化元年福岡県直方市で貧農の家に生まれる。父親は農業のかたわら炭坑夫として働き、太助も8歳から坑内に入り、家計を助けた。明治3年、26歳の時やっと100円の貯金ができ、念願の鉱山を手にする。やがて西南戦争が勃発、炭価が暴騰する。貝島は昼夜兼行で堀りまくり、2500円の大金を手にする。同17年、九州随一の大之浦炭坑を入手日清、日露の両戦役で巨利を占め、大正3年死去。弟太市が跡を継ぐ。

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