日露戦争(提供:MeijiShowa.com/アフロ)

 三井物産の使い走りの小僧から手代へ。米で相場師としての萌芽をみせた山本条太郎は、独特の手法で中国市場開拓、日清・日露戦争に便乗して儲けるなど、出世街道をまっしぐらに歩いていました。後に起こったシーメンス事件、そして政界への進出、山本の後半の人生について、市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


  部下の開けた綿糸相場の大穴を無事修復 日露戦争で中国市場を開拓

 日清戦争の当時、山本条太郎は三井物産上海支店長を務めていたが、開戦と同時に帰国命令が出る。だが、山本は引き揚げを拒否、軍用品の調達や日本軍から頼まれて軍事探偵をやったり、血気盛んなところを見せつけた。

 1897(明治30)年、山本は本社綿花部長となり、帰国する。当時は日本の綿紡績の勃興期で、三井物産も傘下に九州紡績や合同紡績を創立し、綿花部長といえば花形役者であった。ところが、山本が外遊中に九州紡績の支配人守山又三が綿糸相場で大穴を開けてしまう。守山は別名を「無理山無茶三」といい、日頃から無謀な相場師として恐れられていたが、宮本又次は『大阪商人太平記』の中でこの時の仕手戦について詳述している。

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