江戸八百八町に八百八講……江戸時代中期から後期にかけて富士講は江戸庶民の間で大いに興隆した。江戸の町という町に富士講が組織され、人々は信仰のために富士山に登るようになった。夏になると白い行衣に身を包んだ大勢の信者が上吉田を訪れ、その光景は戦後まで続いた。そして今日も富士講は脈々と富士山信仰を紡いでいる。現代を生きる富士講のリーダー、先達を取材した。

【連載】富士山と宗教

東京・新宿で今も続く富士講「丸藤講」

自宅神殿の前で話しをする丸藤宮元講の先達、井田三郎さん=東京・新宿区

 東京都新宿区。大学生で賑わう東京メトロ東西線早稲田駅からほど近い住宅街に、富士山をかたどったマークのついたビルが建っている。ビルの2階から上は居住スペースになっており、その上層階に井田三郎さんは暮らしている。

 井田さんは、食行身禄の弟子、高田藤四郎が興した丸藤講から続く講社、丸藤宮元講の先達だ。行者、角行の教えにはじまる富士講は、角行から5代目の弟子となる食行身禄の教えが人々の共感を呼び、江戸時代、爆発的な人気につながった。身禄の弟子で、丸藤講を興した高田藤四郎は植木職人。その職をいかして富士塚をつくり、各地に富士塚がつくられた契機になったという。

 高田藤四郎がつくった富士塚は、当初の場所から移転されてはいるものの、現在も早稲田大学に隣接する水稲荷神社の境内に存在している。丸藤講は、その流れをくむ枝講が多く存在したが、時代の趨勢とともに姿を消し、今は丸藤宮元講だけが江戸時代から続く信仰を守っている。

「幼稚園に通う頃から富士山に登っていました。兄弟全員、子供の頃から富士山に毎年、登りましたね。富士山に登るのは自然なことでしたから。登らない方がおかしいという感じでしたよ」と井田さん。祖父の代から先達をつとめ、自身も講員にすすめられるまま先達になった。

「隣り近所の付き合いから始まっている」

木花咲耶姫と角行、身禄を祀っている丸藤宮元講の神殿。富士山や手鏡、天狗も=東京・新宿区

 先達だった父親とともに金属加工業を営んできた井田さん。子供の頃から創意に溢れていたようだ。「自分でなんでも作りました。釣りをしたいと思えばクジャクの羽根で釣りの道具を作り、そのうちクジャクを飼いはじめて動物園の飼育係に教えてもらって人工ふ化を手掛けたりもしました」と話す。

 そっと見せてくれたのは父親と作ったというゴムの硬度を測る計器。医療機器の開発なども手掛けてきた。また、オートバイをつくってモーターサイクルショーに出したこともあるという。「好きなことをしてきました。なんでも屋みたいなものです」と言って笑う。もともと自動車関係の会社で仕事をしていたということだが、製作所を営んでいた父親を継ぎ、自身も丸藤宮元講の先達となり富士山信仰の灯を守ってきたのだ。ビルの上層階にある自宅は、玄関に入った瞬間から「富士山」で溢れていた。

 奥の一室には神殿が設けられ、中央の神殿には木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が祀られ、左右に角行と身禄が祀られている。また、裏に葵の紋が付いた鏡が置かれ、その左右に一対の天狗が置かれていた。

 中央の神殿の左右には修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)と、高田藤四郎が祀られているという。この神殿の前で毎月、お焚き上げの神事が行われているほか、都内の富士塚を巡る「七富士参り」、富士山登拝、吉田の火祭りでの拝みなど江戸時代、庶民の間で広く行われていた富士講行事を現代に継承して続けてきた。丸藤宮元講の行事は平成22年に新宿区の無形民俗文化財に指定されている。

 井田さんに富士講とは何か聞いた。「隣り近所のお付き合いから始まっているんです。だから知らない人が講に入るということはないですね。富士山に登る時も山小屋の人も泊まる御師の家の人たちもみんな知り合いです」と話す。江戸から続く暮らしに根づいた人と人とのつながりの在り方そのものが富士講なのかもしれない。