藤本のライバルだった阿部彦太郎(実業之世界社編『財界物故傑物伝』)

 藤本清兵衛が関西の米穀商として活躍した明治初期の頃は、まだ米が通貨と同等、もしくはそれ以上の価値がある時代でした。政府米の御用商人として命を受けた藤本は、米の価格の下落時も一人勝ちを続けました。単にラッキーだったわけではありません、政府が信頼を寄せるほどの人柄や仕事ぶりとはどのようなものだったのでしょうか? 生涯を通して大きな失敗もなく順風満帆な投資家人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


  明治初期、米価が重視された時代


  藤本清兵衛(初代)について『大和証券百年史』は次のように詳述している。

 「明治14年に政府が備荒儲蓄(びこうちょちく)条令を施行した時、三井物産と並んで大蔵省御用を命じられ、西日本産米を買上げて政府に納め、年間取扱高は10万石に達した。19年頃の同店は米の取引高で全国の首位にあり……。進取的な人物で金融市場への関心も深く、15年には日本銀行株式200株を引き受けたほか、18年頃約束手形をわが国で初めて使用したとされる」

 『大和証券百年史』が冒頭に藤本の業績を記すのは、創業者(2代目藤本清兵衛)の養父に当たるからである。

 明治初期、日本では米価本位制ともいわれるほど米価が重要視された。1881(明治14)年に9円90銭(年平均、1石=15キロ)の高値をつけたあと、1882(同15)年7円92銭、1883(同16)年6円12銭、1884(同17)年5円8銭と下落する。ここまで下がると農村の疲弊が問題になってくる。

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