人口が減少し、社会の成長が見込めない時代といわれます。一方で、科学技術の進化が、高齢化の進む日本の未来を、だれにとっても暮らしやすい社会に変えるのではないかともいわれています。わたしたちは一体どんな社会の実現を望んでいるのでしょうか。

 幸福学、ポジティブ心理学、心の哲学、倫理学、科学技術、教育学、イノベーションといった多様な視点から人間を捉えてきた慶応義塾大学教授の前野隆司さんが、現代の諸問題と関連付けながら人間の未来について論じる本連載。2回目は自身の研究をなぜ哲学や倫理学に広げていったのか、つづります。


[イメージ]哲学や倫理学の歴史から幸福学を考えるとその意味はどのようになるのでしょうか(写真:アフロ)

 幸福学研究者の前野隆司です。

 前回は、ロボットの研究から幸福学の研究に移った経緯について述べてきましたが、哲学的・倫理学的な経緯については述べていませんでした。今回は、その話から始めたいと思います。

 私は、実は、ロボットの研究をしていた頃に、「心の哲学」や「応用倫理学」の研究・教育も行っていました。

 「心の哲学」とは、そもそも心は何のためにどのようなメカニズムで存在しているのか、について考える分野です。近代にはデカルトが「我思うゆえに我あり」と言ったのが有名ですよね。私は今まさに今ここで考えている。考えているという事実がある以上、私の心というものは疑いようなく存在しているというべきである、というのがデカルトの主張です。

 私はこれに異論を唱えました。「我思う、しかし我は本当はないんじゃないの?」。受動意識仮説です。『脳はなぜ「心」を作ったのか』(ちくま文庫)に述べました。後日、機会を見て詳しく説明したいと思いますが、私の説は、心なんて幻想または錯覚みたいなものなのではないか、というものです。

 それから、技術者倫理教育。私は慶應義塾大学理工学部機械工学科の「創造と倫理」という科目を10年以上教えています。技術者は何をすべきか。何をすべきではないか。もちろん、してはいけないのは、賄賂、捏造、隠蔽、改ざん、偽装などの悪事です。倫理学とは、「べきである」の学問。哲学は「である」の学問。よって、倫理学と哲学は独立であると言われます。つまり、「である」から「べきである」は導けないし、「べきである」から「である」は導けない。

 「車はクリーンであるべきである」から「ハイブリッドカー」が導かれるではないか、と反論されたことがあります。もちろん、工学では、「べきである」から「である」を導きます。慶應SDMで教えているシステムズエンジニアリングでも、要求からシステムデザインを導くのは、まさに「べきである」から「である」を導く活動です。

 哲学と倫理学は、根本のところを論じる基礎的学問であって、工学はそれを応用して人の役に立つものやサービスを作る応用的学問である、という違いがあります。倫理学としての「べきである」から哲学としての「である」は導けない、というのは、「根源的なところでは」という前提の上での議論なのです。

 さて、哲学・倫理学の歴史を大雑把におさらいしてみましょう。

 紀元前5世紀ごろ、ソクラテス、ブッダ、諸子百家(孔子、老子、荘子など)などの思想家が生まれました。ドイツの哲学者ヤスパースはこれを枢軸時代と名付けました。世界史の軸となる時代という意味です。

 私は、このころから東洋と西洋が大きく別の道に分かれていったと捉えると歴史の全体を捉えやすいと思っています。「そもそも東洋と西洋というわけ方は乱暴だ」などの反論は予想されますが、ここでは、“全体”を大雑把に掴むものとご理解ください。

 そう、私は、“全体”に興味があるのです。根源的な問い、といいましょうか。

 そもそも宇宙はなぜ何のためにあるのか?
 そもそも心とは何で、何のためにあるのか?
 そもそも生きるとはどういうことか?
 死ぬとどうなるのか?
 そもそも人類はどのように進歩してきたのか(あるいは進歩してこなかったのか)?
 SDM学は(あるいは他の学問は)、そもそも何をすべきなのか?
 人はどのように生きるべきか?
 未来はどうなるのか?

 自分の研究領域を、工学から心理学、哲学、倫理学、経営学、宗教学、SDM学など様々な分野に広げてきたのも、このような全体的で根源的な問いにずっと興味があったからです。

 この連載で考えたいことも、これらのような根源的な問いです。今後何を書くのかは全く決めていませんが(笑)、上のような話になるのではないかと思っています。