人口が減少し、社会の成長が見込めない時代といわれます。一方で、科学技術の進化が、高齢化の進む日本の未来を、だれにとっても暮らしやすい社会に変えるのではないかともいわれています。わたしたちは一体どんな社会の実現を望んでいるのでしょうか。

 幸福学、ポジティブ心理学、心の哲学、倫理学、科学技術、教育学、イノベーションといった多様な視点から人間を捉えてきた慶応義塾大学教授の前野隆司さんが、現代の諸問題と関連付けながら人間の未来について論じる本連載。3回目は自身の研究をなぜ哲学や倫理学に広げていき、現在担当されているシステムデザイン・マネジメント学や幸福学へとつながっていったのか執筆します。


「我思うゆえに我あり」、でも「我が有るかどうかもあやういではないか」

[イメージ]孔子の教えなどを記録した論語。東洋哲学の見直しが始まっている(写真:アフロ)

 今回(第3回)は、哲学や倫理学や思想の歴史が幸福学やSDM(システムデザイン・マネジメント)学とどのように関わるのか、ということを述べたいと思います。

 前回(第2回)は、紀元前5世紀ごろの枢軸時代に東洋と西洋が分かれたのではないかということを述べました。東洋では仏教哲学や老荘思想といった重要な思想は出てきたものの、「有るとも無いともいえる」というような禅問答(もちろん禅は仏教の一部ですから禅問答が紀元前5世紀の東洋思想と似ているのは当然というべきでしょう)のような考え方が相変わらず強化されていくのに対し、西洋側では、正しいか間違っているか、善か悪か、白黒をはっきりさせる考え方が発展していきます。

 一気に時代を早送りして、近代について考えてみましょう。15~16世紀以降です。西洋における近代とは、ルネサンス、大航海時代、宗教改革、産業革命の時代ですね。これらが全て絡み合いながら歴史の流れは進展していて面白いのですが、ここでは哲学・倫理学について考えてみましょう。

 近代哲学の立役者はデカルトからカントまでと言われます。彼らは絶対的な善や真を探していました。古代ギリシャの頃と似ています。

 しかし、時代が進み、ポストモダン(近代の後)の哲学になると、違った様相を呈します。

 リオタールは、歴史には明確な目的や到達点は存在しない、と近代哲学を否定します。絶対的な真や絶対的な善のような大きな物語(全体を律する規範)は終焉したので、人は小さな物語(自由気ままな自分の人生)を生きるしかないというのです。

 前に述べたように、近代の哲学者デカルトは「我思うゆえに我あり」といいましたが、ポストモダンでは、我が有るかどうかもあやういではないか、ということになってしまった。ニヒリズム(虚無主義)です。哲学的に絶対的なものはないのではないか。

 近代の哲学者カントは絶対的な善が存在すると考えましたが、ポストモダンでは、実は絶対的な善など幻想ではないか、ということになってしまったのです。

 つまり、西洋は、紀元前5世紀ごろから、二項対立的な考え方によって2500年という長い年月をかけて進化を続けてきたような気がしていたのに、現代になってみると、長く積み上げてきたものを否定せざるを得なくなってきた。これが現代という時代だということです。

 そして、それは同時に、古代ギリシャや東洋に今も残っている東洋哲学・思想を見直すということでもあります。

 実際、マイケル・サンデルなどの共同体主義の政治哲学は、アリストテレスの頃の考え方に近いコミュニタリアン(共同体主義者)という立場に立ちます。

 西洋が東洋に学ぶ例は、ニューエイジの頃から、現代のマインドフルネスのブームまで、さまざまなところで見られます。