近代以降の人類が忘れかけているもの

 なんて、現代的な考え方と違うのでしょう。個がおごっていない。前回と前々回は、東洋と西洋の比較という形で文明史を見てきましたが、古き良きものが残された地域に脈々と残っているものは、まさに近代以降の人類が忘れかけている全体性・調和性なのではないでしょうか。

 以前『幸せの日本論』(角川新書)という本にまとめた、協創型社会システムと競争型社会システムの比較表を表1に示します。

[表1]協創型社会システムと競争型社会システム(『幸せの日本論』(角川新書)196ページ表1を改変)

 表の左側が、前回までの議論でいうと東洋的なもの、右側が、近代西洋的なもの、と言い換えてもいいのではないかと思います。

 前回の図を思い出してみてください。近代化によって世界は大きく発展したように思えたけれども、限界を迎え、ポストモダンの時代になってみると、2500年前にあった調和的な時代、ないしは、古くから変わっていないものを見直すべきではないかと思われるようになった。

 表の左側の、全体が調和し共生する社会モデルが、古き良きものを残している社会。図1のブータンやフィジーやネイティブアメリカンの社会もこれに当たります。一方で、表の右側、勝ち残りゲーム式社会モデルとは、近代以降の競争社会です。

 いかがですか。共生社会。人の関係はフラットで、多様な人が有機的にネットワークを構築している。協力的で、利他的で、相互依存的。皆が皆を思いやり、各自はそれぞれの思いを持って調和している。みんな、目の前の目的にとらわれ過ぎず、大きな未来を見据えている。多様で自由な未来は未知だから、マニュアルはない。だから、みんなが楽しみながら試行錯誤を繰り返す。助けあいながら。クリエーティブでイノベーティブ。研ぎ澄ました感性が大切。皆が芸術家。すべてのことには意味があり、すべてのことには価値がある。みんな、信じあい、認めあい、尊敬しあい、愛しあっている世界。平和で幸せです。

 もちろん、現代社会においては、右側のように合理的に判断して勝敗を決めなければならない時もあるでしょう。しかし、そちらに傾きすぎると人は不幸になるのではないでしょうか。左のように調和的に生きられる時、争いはなく、平和で、人は幸せに生きられます。

 いやいや、そんな甘っちょろいことを言っていたら、最近流行った『カエルの楽園』(百田尚樹)に出て来るツチガエルの国ナパージュ(Napaj。反対から読んだらJapan)のように、戦闘的なウシガエルに侵略されてしまうのではないか。そんな反論がありそうです。「『憲法9条を守れ』というのは平和主義の理想というよりもアメリカの傘の下での遠吠えではないか」という議論は一理あると思います。しかし、青臭い理想論として、世界中のみんなが左側の世界を実現できたら、いかがでしょうか。

 そんな理想を描いた人は過去にもいました。アインシュタインも湯川秀樹も第二次世界大戦後に世界連邦運動を行いました。軍隊を持つのは世界連邦軍だけにして、各国軍は廃止すべきだ、という考え方が基盤にあります。カントの『永遠平和のために』も近いですね。

 「理想よりも現実」という人に、私は言いたい。それは二項対立的な世界観です。理想と現実を共に見据えようではありませんか、と。理想は現実を優しく包み込んでいるのです。遠い理想があるから、現実はあるのです。対立するのはやめましょう。現実を見るのをやめましょう、というのではないのです。理想を描いたその枠の中で、現実を直視しましょう、と言いたいのです。理想のない現実論は危険です。自分たちのことだけを考えてしまいがちだからです。もちろん、現実のない理想も危険です。ナパージュを守れませんから。

 私が研究者として、活動する者として、最も興味を持っていることは、いかにして図1の左側の世界を創るかということです。国家を超えた世界でこんな理想的な平和が構築されるまでにはまだ時間がかかるでしょう。しかし、たとえば地域や中小企業などの小さな生態系では理想が実現し始めています。幸せな地域や幸せな企業の実例については、追ってじっくりお話ししたいと思いますが、理想は実現可能である、ということを強調して、今回の話を終えたいと思います。

※次回連載は3/15ごろ掲載予定です。

【参考図書】
・前野隆司,幸せの日本論―日本人という謎を解く ,角川新書,2015年4月