南洲西郷隆盛翁記念碑(写真:ペイレスイメージズ/アフロ)

 強面で豪快だけれども、心優しいというイメージが一人歩きする、西郷隆盛はじつは大の戦(いくさ)好きだったというエピソードの数々が残されています。なかでも、「浅草蔵前天王町で強盗事件」を発端に始まったテロともとれる薩摩藩が主導する討幕運動は、多くの庶民を巻き込みました。戦が始まるとニヤリと喜ぶ、「いい人」のイメージからは浮かんでこない西郷の残酷な一面を大阪学院大学経済学部教授の森田健司さんが解説します。

 ※この記事は連載【西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」】(全5回)の第3回です。

【連載】西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」

撹乱される江戸の秩序

 慶応3(1867)年10月20日午後10時頃、浅草蔵前天王町で強盗事件が発生した。被害を受けたのは、札差(ふださし)の板倉清兵衛宅。5人の浪士が屋内に侵入し、清兵衛を脅して金蔵を開けさせたのである。彼らは千両箱3つを奪い、それを舟に載せて撤収した。

 物騒だが、残念ながらいつの時代にも起こる類の事件だろう。しかし、この浪士たちが帰還した場所を知ると、そうも言えなくなる。彼らは、なんと三田にある薩摩藩邸に引き上げていったのである。

 この日以降、江戸を中心とした関東地方で、豪商宅を中心に多くの屋敷が襲われた。長らく高い水準で保たれていた江戸の治安が、薩摩藩邸を拠点とする浪士隊のおかげで、一気に悪化したのである。どうも彼らの総数は、百を超えるようだった。

 与力、同心たちが薩摩藩邸に出向いて引渡しを求めても、「そんな連中は当屋敷にはいない」の一点張りである。そもそも奉行所の役人たちでは、屈強な浪士たちに敵うはずがない。強く出られないのも無理はなかった。

 旧幕臣の塚原渋柿園(じゅうしえん、1848-1917)は、当時のことを次のように記している。

 当秋の頃から江戸市中に、強盗、辻斬、種々物騒な事が流行つて、夜になると日本橋京橋かいわい、神田、芝、品川あたりの盛り場にも人通りの絶たことがある位いであつた。
        ― 塚原渋柿園『歴史の教訓』

 ある日、増長する浪士隊は、遂にとんでもない予告ビラを江戸の町に撒く。それは、「11月4日に放火する」というものだった。

 江戸の町民にとって、最も恐れていたものが火事だった。木造建築物が集中していた江戸は、一度火がつくと次々に類焼し、被害は甚大となる。放火犯が火炙りの刑に処せられるのは、当時の人々にとって当然のことだった。だから放火の予告は、江戸の庶民を恐怖に陥れた。

 果たして、この良心の欠片もないような浪士団は何者なのか。

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