1877(明治10)年発行の錦絵「東西英雄競」(筆者所蔵)

 西郷隆盛の島津斉彬びいきは、NHK大河ドラマ『西郷どん』でも描かれています。西郷が斉彬に心酔する一方、島津久光との確執は広がっていきます。また、久光は時代遅れの愚か者として、一般的にはよい印象が語られていません。それはあくまでも西郷の目線で見た久光だからだといえます。実際は派手さはないものの、優れた政治家だったといわれています。あまり語られない功績と最後までブレずに主張を貫いた久光について、大阪学院大学経済学部教授の森田健司さんが解説します。

 ※この記事は連載【西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」】(全5回)の第4回です。

【連載】西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」

幕末薩摩の生んだ指導者

 幕末の薩摩・島津家は、二人の雄偉なる「指導者」を輩出した。一人は、第11代藩主の島津斉彬(なりあきら、1809-1858)、もう一人は、斉彬の異母弟に当たる島津久光(1817-1887)である。

 斉彬は、現在も知勇兼備の藩主として広く認知されている。特に、当時における最先端の科学技術に関心が高く、洋式工場群の積極的な建造、いわゆる「集成館事業」は有名である。また、藩政の面でも次々と改革を打ち出しており、実力主義に基づいて下級藩士を積極的に取り立てた。西郷隆盛は、この過程で斉彬に見出された者の一人である。養女の篤姫(あつひめ)を第13代将軍・徳川家定(1824-1858)の正室にするなど、薩摩藩の存在感、そして発言力を高めたことも大きな功績といえるだろう。

 そして、久光である。彼は異母兄の斉彬と同じか、それ以上に知性の人だった。幼い頃から和漢の学への関心が高く、博覧強記、識見卓絶の人として知られていた。実子の忠義(1840-1897)が藩主となってからは、「国父」として藩政の実権を握り、公武合体運動の推進で活躍し、斉彬以上に薩摩藩の力を高めることに成功している。

 しかし、残念ながら一般的には、久光の評価は相当に低い。いや低いどころか、愚昧な指導者、時代錯誤な思想の持ち主とさえ描かれることがある。

 こうした「歪んだ久光像」が流通している理由は、何だろうか。その答えは、極めて明白である。西郷隆盛と激しく対立した人物だから――これに違いない。

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