今からおよそ100年前の1920~30年代にかけて、アール・デコ様式が世界的な流行となりました。建築家で、多数の建築と文学に関する著書でも知られる名古屋工業大学名誉教授、若山滋さんが、その全盛期に朝香宮鳩彦王が建てた旧朝香宮邸(東京都庭園美術館)が発する文化力を取り上げます。


転換点の傑作

正面外観

 稀に見る傑作である。

 これまで本欄で取り上げた住宅は、政治家や経済人の家であり、宮様の家は珍しい。しかも有名建築家の作品ではなく、施主である朝香宮の個人的な趣味が反映され、なおかつ名建築なのだ。

 そして重要なことは、これが日本の格式ある書院造の系譜でもなく、ヨーロッパのバロック宮殿の系譜でもなく、モダンな建築だということである。なぜならモダニズムとは、過去の様式、特に寺院と宮殿の様式を否定するところから出発したのであり、宮家には受け入れにくいところがあるからだ。

 時代というものだろう。

 ちょうど、世界デザイン史の転換点、日本文化史の転換点につくられた。

朝香宮とパリのアール・デコ展

大客室

 朝香宮鳩彦王は、陸軍士官学校から陸軍大学校へ進み、1922年、軍事研究を目的としてヨーロッパに渡ったが、交通事故で脚に重傷を負い、その治療のため、パリに長期滞在することとなる。そのことが逆に、彼の注意を軍事から文化に向けさせ、この傑作の誕生につながった。

 当時のパリは、フランスという国家を超えて、ヨーロッパの、あるいは世界の、文化首都といっていい状況であった。

 一般的に19世紀末から20世紀初頭のパリを「ベルエポック(良き時代)」と呼ぶが、そのころ(1907)にパリを訪れた永井荷風は書いている。

 「あゝ巴里よ ―中略― 有名なコンコルド広場から並木の大通シャンゼリゼー、凱旋門、ブーロンユの森は云ふに及ばず、リボリ街の賑ひ、イタリヤ広小路の雑踏から、さてはセインの河岸通り、又は名も知れぬ細い路地の様に至るまで、……此れまで読んだ仏蘭西写実派の小説と、パルナッス派の詩篇とが、如何に忠実に如何に精細に此の大都の生活を写して居るか」(『ふらんす物語』)

 荷風は「世界のパリ」に対する憧れを隠さない。
 そしてこの1920年代を「レ・ザネ・フォル」(狂乱の時代)と呼ぶが、それはアメリカの「ローリング・トゥエンティズ」(狂騒の20年代)に呼応している。

 朝香宮はその「世界のパリ」の最後の輝きを眼にしたことになる。

 折から1925年「現代産業装飾芸術国際博覧会」という長い名前の、いわゆる「アール・デコ博」が開催される。朝香宮はこれを見学して強い衝撃を受けたようだ。関東大震災で傷んだ高輪の屋敷に代わって、新たに白金の地に、この博覧会の装飾的エッセンスを集めた住宅を計画する。

 しかし皮肉なことに、この博覧会でもっとも話題になったのは、建築界の新星ル・コルビュジエが設計した「エスプリ・ヌーヴォー(新精神)館」であった。その「新精神」とは「無装飾」を意味する。すでにアヴァンギャルド(前衛)を自認する建築家やデザイナーたちは、あらゆる装飾を否定し、機能に即して製品をつくる方向の運動「機能主義モダニズム」に向かっていたのだ。

 つまりこの博覧会は、装飾の時代から機能の時代への転換点、人類の造形文化そのものの転換点にあった。

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