1877(明治10)年発行の錦絵「賊徒軍門降伏」(筆者所蔵)

 日本最後の内戦といわれる「西南戦争」は、日本史の教科書ではあっさりとしか触れられていません。この戦いの首謀者は西郷隆盛とされ、罪もない庶民を含め1万3000人の犠牲者を出しました。しかし、もともとは西郷が始めた戦争ではなかったのでした。いつの間にかリーダーのように担ぎあげられてしまった西郷ですが、別の道を選択する余地がなかったのでしょうか? 西郷の運命と歴史の中での評価を決めた最後の戦いについて、大阪学院大学経済学部教授の森田健司さんが解説します。

※この記事は連載【西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」】(全5回)の5回目で最終回となります。

 

【連載】西郷隆盛にまつわる「虚」と「実」

西郷内閣の終了と下野

 西郷隆盛のドラマチックな人生において、最終章となったのは「日本最後の内戦=西南戦争」である。この戦争の原因は、決して一つではない。しかし、その中で最も欠くべからざるものを挙げれば、何より「西郷が下野していたこと」となるだろう。

 明治4(1871)年に渋々ながら出仕要請に応えた西郷は、同年6月に参議となり、正三位(しょうさんみ)に叙せられる。この年の11月、いわゆる岩倉使節団として政府要人が一気に米欧に渡航するが、それ以降、西郷は留守政府の実質的首脳となった。西郷内閣の誕生である。

 西郷内閣は岩倉具視(ともみ、1825ー1883)が帰国した明治6(1873)年9月13日をもって終了するが、その直後、西郷の運命を変える大きな問題が起きる。いわゆる朝鮮使節派遣の中止である。

 西郷を全権とした朝鮮使節派遣は、同年8月17日に正式に閣議決定されていた。その決定を、岩倉らが覆したのである。これに激怒した西郷は、参議兼陸軍大将・近衛都督の辞表を提出し、鹿児島に帰った。

 ここからの動きは早い。西郷を慕う者、特に同郷の士族が続々と彼の下に集結するのである。また同時期、近衛兵を満期退役し、鹿児島に戻った若者たちの無法な振る舞いが、地元では大きな問題となっていた。彼らを「収容」する施設として、学校を建設するアイデアが西郷に寄せられる。これが、いわゆる私学校の始まりである。

 西郷をトップに据えた私学校は、篠原国幹(くにもと、1837-1877)が監督する銃隊学校、及び村田新八(1836ー1877)が監督する砲隊学校を本校とした。前者には500~600名、後者には200名が在籍する。また、鹿児島城下に12、県下に136の分校が作られた。運営予算は県から支給され、私学校は一大勢力となる。政府から眺めれば、これほど不穏な存在はなかった。

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