プレスティッジを擁護する声も

キング・プレジャーの「ムーディーズ・ムード・フォー・ラブ」が収録されているアルバム

 そんなわけで、プレスティッジのイメージはひどく悪いのだが、一方でプレスティッジを擁護する関係者もいる。たとえば批評家のアイラ・ギトラーは、こうしたうわさには誤解があるというのだ。ギトラーは、当時のジャズの現場にいて、楽器ごとにビ・バップの変革を記した『40年代のジャズ』という名著は、その後の世界のジャズ批評家の最高の参考書になったと言っていい。

 ギトラーはプレスティッジのアルバムのライナー・ノートもたくさん書いていて、その現場にいた人でもある。だから、その後の悪いうわさに我慢できなかったようで、こう反論している。

 「プレスティッジは、リハーサルをしなかったと言われるが、モダン・ジャズ・カルテットはしているし、他のセッションでも多くはクラブのライブというかたちで行っていたという。また、ブルーノートは深夜まで熱心に録音が行われたが、プレスティッジは、夕方5時できっちり終わった。ルディ・ヴァン・ゲルダーによると、その5時になると、ワインストックが最後にブルースでもやるかと提案し、それを『ワインストックの5時のブルース』と呼んだ」と回顧しているが、しかし、これはいわゆるジャム・セッションのような録音が続いた1950年代後期の話で、常にそうだったわけではないという。

 このギトラーの話で、特に重要なのは後段で、つまり、ボブ・ワインストックは、実はジャム・セッションのような気ままな演奏にこそその魅力の神髄があると考えていたということらしい。こう考えると、ワインストックが知性派のピアノ、ジョン・ルイスを嫌う理由が分かるし、鬼才セロニアス・モンクの新作に及び腰だったのも納得がいく。

 そして、このジャム・セッションのような録音の次にくるプレスティッジの大きな流れは、オルガンとサックスによるたくさんの泥臭いポップなジャズ・アルバムで、ジャズ・ファンの興味は一気に引いていく。こうした路線は、後年、いわゆるクラブ系のミュージシャンに再評価されることになるが、むろん、ワインストックはそんな未来を読んでいたわけではない。

 ここで余談だが、プレスティッジの最大のヒット作は、1954年のキング・プレジャーの「ムーディーズ・ムード・フォー・ラブ」というシングル盤だった。ジャズ・ファンのほとんどは聴いたことがないかもしれない。これを売るためにワインストックはレコード店、ジュークボックスを置いてある店を走り回ったようだが、そのときの現場体験が、後年の流れを生んだに違いない。

 1950年代にプレスティッジに残されたマイルス、モンク、モダン・ジャズ・カルテットなどの貴重な記録の多くは、まだ、20代のこの若者を支援した周辺の影響とその時代の幸運がもたらしたものと言えるかもしれない。そして、ワインストックが20代後半になって、自分の考えで切り盛りするようになると、このレーベルのイメージががらりと変わった。ワインストックは、外にプロデューサーをたて、録音現場にも顔を出さなくなった。

 けれど、ジャズのマイナー・レーベルの困難さは変わるわけではない。おそらく、ワインストックがこのレーベルを経営し、もっとも多額の収入を得たのは、最後にこの膨大な録音資産の権利を大会社に売り渡したときだろうと言われている。この終焉は、他の名門レーベル、ブルーノートやリバーサイド・レーベルでも同じように起こり、個人が支え、ジャズを牽引したひとつの時代の終焉でもある。

(解説:青木和富)