様々な形の雛飾り。現代のような親王飾りは江戸時代初期の後水尾天皇の頃からと言われている

 ひな祭りとして定着している3月3日。桃の節句という呼称はよく聞くかと思いますが、正式には「上巳(じょうし)の節句」といいます。

【連載】神さまのいるところ ー東京・日本橋 福徳神社ー

禊祓いから始まった雛祭り

 上巳の節句の起源は紀元前300年頃の古代中国で始まった上巳節という行事で、3月最初の巳の日(上巳)に川で禊をした後、曲水の宴などを催して春の到来を祝い、無病息災を願うものでした。

 古くから、季節の変わり目には災いをもたらす邪気が入り込みやすいと考えられており、水神としての蛇(巳)信仰があるほど水と深い関係のある巳の日に水に入ることで、穢れを祓ったのでした。3月3日に固定化したのは、魏(紀元前453~紀元前225)の初代皇帝・曹丕(そうひ)であったと言われています。

 この上巳節が奈良時代の日本にもたらされ、宮中で上巳の祓や曲水の宴を行うようになりました。曲水の宴とは、水辺に沿って出席者が座し、流れてくる酒盃が自分の前を通り過ぎるまでに詩歌を読み、盃の酒を飲んで次へ流すという雅な遊びです。

 日本の上巳の節句の初見は、日本最古の正史『日本書紀』。第23代顕宗天皇元年(485)の3月に宮廷の儀式として催された様子が記されています。行事として恒例化したのは文武天皇五年(701)以降と考えられています。

 もっとも、中国から伝わった上巳節の行事の中でも、雅な曲水の宴は日本の貴族にもてはやされましたが、この日に禊を行うことに関しては、貴族の間では定着しなかったようです。そこで生み出されたのが、「人形(ひとがた)」に穢れを移して代わりに水に流すという方法。
 
 今日も6月末と12月末の大祓では人形に息を吹きかけたりして自分の罪穢れを移し、流すという儀式が全国の神社で行われていますが、このルーツは上巳の節句の人形にあると言われています。

形代流しと雛遊び

江戸時代に多く描かれるようになった立雛図の掛軸。雛祭りの行事食と一緒に

 平安時代にはこの風習が貴族の子女の間で楽しまれていた紙人形遊び「ひいな遊び」と結びつき、「流しびな」になりました。「雛=ひな」には「小さくかわいい」という意味があります。

 紫式部の『源氏物語』の須磨の巻にも、光源氏が自身の形代である人形を船に乗せ、須磨の海に流す様子が描かれています。鳥取県など、現代も流しびなの風習が根付いている地域が各地にあります。
時代を経て、人形は男女の一対とされるようになりました。子供の健やかな成長と夫婦円満な幸せな将来を迎えられるよう祈念し、人形に厄を移して流すようになったのです。

 当初は紙などで作られていた素朴な人形も、技術の発展とともに豪華さを増し、流すよりも飾る人形へと変化を遂げました。旧暦の3月3日はかわいらしい桃の咲く季節で、人形がモチーフになっていることもあり、武家社会では5月5日の端午の節句を男の子の祝いとしたのに対し、上巳の節句を女の子の祝いとするようになりました。

 ひな人形を飾り付けた豪華な飾りのひな祭りが最初に行われたのは、江戸時代初期の寛永6年(1629)のこと。京都の御所で時の後水尾天皇が内親王など女児のために催したのが始まりとされています。

 江戸時代初期、幕府はそれまであった重要な5つの年中行事「五節句」を公式行事として制定しますが、上巳の節句もこれに含まれました。京都から伝わった豪華な飾りのひな祭りは、江戸城の大奥にも伝わり、やがて庶民も盛んに行うようになりました。

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