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 長野県立歴史館(同県千曲市)は、川中島合戦で活躍した信州の地侍(じざむらい)を褒めたたえた武田晴信(信玄)の感状を6日から特別公開します。川中島合戦の資料は少なく、同歴史館でも感状は初の資料。併せて展示する小県郡室賀(ちいさがたぐんむろが=現・上田市)の室賀家に伝わる武田勝頼、徳川家康、上杉景勝の文書とともに最近入手できた資料で、同館は資料の収集にさらに力を入れたいとしています。

当時の書状の作法や身分関係が垣間見える

[写真]武田晴信(信玄)が信州の地侍に与えた感状

 信玄の感状は、天文24(1555)年の第二回川中島合戦で7月19日に現・須坂市周辺の地侍の1人、蘆川(あしかわ)氏にあてたもの。

 感状は「今十九、於信州更級郡川中島、遂一戦之時、頸壱討捕之条、神妙之至感入候、弥可抽忠信者也、仍如件 天文廿四年乙卯 七月十九日 晴信(朱印=印文は晴信) 蘆川との」とあり、

 読みは「今十九(今日19日)、信州更級郡川中島において、一戦を遂げるの時、頸(敵の首を)壱(一つ)討ち捕るの条(こと)神妙の至り感じ入り候、いよいよ忠信を抽(ぬき)んず=はげむ=べきものなり、よって件(くだん)の如し」。蘆川氏の活躍をたたえ、さらに励むようにとの内容です。

[写真]「さまざまなことが見えてくる」と語る笹本館長

 同歴史館の笹本正治館長によると、蘆川氏は須坂市の鮎川(あゆかわ)流域に土着していた「井上十六騎」と称された地侍の1人で、その後もこの地域に記録を残している一族。信玄による感状の文章のうち最後が「蘆川との」と平仮名の「との」になっていることや、「くだんのごとし」とあるのは、それほど身分の高くない者への表現として使い分けているとしています。

 また、あて先の「蘆川との」の書き位置も低めにしてあり、「より身分の高い者にあてる場合は少し高い位置に書き、同列の武将などの場合はもっと高い位置に書く」と笹本館長。「この感状をこうして見ることによって、当時の書状の作法や身分関係など多くのことが見えてくる。大切な情報です」としています。

 例えば感状の末尾は花押(かおう)ではなく、「武田晴信」の朱印。「これは当時、武将が自ら花押を記すことは少なく、発出する文書はほとんど右筆(ゆうひつ)と呼ばれる書記役の専門家が書いていたため。紙の大きさや折り方も相手により異なる」などとした笹本館長は、「タイムスリップして戦国時代の文書を目の前に見ることができる。それがありがたいことなのです」。

[写真]上下二つ折りにも意味がある徳川家康の書状(天正3年・室賀家資料)

 また、かつて上田の室賀を本拠として活躍した国衆(くにしゅう=大名の領地で従属した有力武士)で武田信玄、上杉氏、徳川氏などに従った室賀家は昨年度、京都の室賀家から約700点の資料を同歴史館に寄贈。今回、武田勝頼、上杉景勝、徳川家康の書状などを寄贈後初公開します。

 特別公開は11日まで。


■高越良一(たかごし・りょういち) 信濃毎日新聞記者・編集者、長野市民新聞編集者からライター。この間2年地元TVでニュース解説