光村弥兵衛(『海鳴りやまず -神戸近代史の主役たち- 第一部』神戸新聞社より)

 失敗しては改名を繰り返し、何度も仕切り直しをした末に成功した人物は、光村弥兵衛をおいて、ほかにはいないかもしれません。実家の農業を嫌い、商売の道での大成を模索した流転に次ぐ流転の日々の中で、ようやく見つけたビジネスチャンスとはどのようなものだったのでしょうか? 市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

【連載】投資家の美学

何度も改名した、

 『兵庫県人物事典』によると、光村弥兵衛は「定期外国航路旅客荷物取り扱い長門屋を創業し、美術印刷の創始者光村利藻の父」と記されている。

 光村弥兵衛の前半生は流転続きだった。名前を次々に変えていかざるを得なかったことにそれは端的に表れている。苦い思いの過去を切り捨て、再出発を誓うとき、人は名を改める。企業は社名を変える。

 弥兵衛が親からもらった名は利吉だった。26歳で故郷を捨てたときは重平(一説には重吉)に改め、諸国を巡った末、倉敷に落ち着いたときは広吉、江戸に出て米倉丹後守の足軽に雇われたときは甚八となる。さらに佐々木という医者の下僕になったときは吉蔵、その後も弥吉、弥兵衛と改名を重ね続ける。

 作家の長谷川伸は「光村弥兵衛の半生変転」(『よこはま白話』所収)の中で以下のように書いている。

 「徳川時代は名を改変することが面倒でなかったとはいえ、35年間に4、5たび名を変え、一度は姓まで変えたこの男は、後に神戸繁栄に尽くしつつ、巨万の富を築き上げた長門屋弥兵衛である。長門屋は商号で姓はのちに興して光村弥兵衛といった」

 弥兵衛の莫大な資産を蕩尽してしまうのが長男の光村利藻で「明治の3大蕩児」の1人としてマスコミでおもしろおかしく書き立てられた。利藻は豪奢に遊んだが、趣味が昂じた写真とカラー印刷の分野で大きな足跡を残し、「グラビア印刷の光村」として21世紀にその名を残している。

何をしてもうまくいかない日々 横浜での外国艦船相手の商売が転機に

 開港間もない横浜で、太田町の有名な作業員頭虎蔵のところへ旅姿のみすぼらしい男がきて、作業員に使ってもらいたいと頭を下げた。虎蔵が「お前はどこの者だ」とたずねると、「田舎者です」と答え、「唄はできるか」と聞かれると「ハイ」と答えた。こうして虎蔵のところにわらじを脱ぎ、建築現場で働くことになった。再び長谷川伸による。

 「さてかの男は地ならしの現場へ差し向けられ、人夫として仕事に就いてみると、役は木遣りの音頭取りであった。ところが、この男は地固めの胴突きにつかう労働唄などまるで知らないのだから、たちまちのうちに進退きわまって、逃げ失せてしまった。この男が後の光村弥兵衛である」

 さて、光村弥兵衛は農家の長男に生まれながら農業を嫌ったため、製塩業を試みるがこれも失敗、1852(嘉永5)年には大阪に出る。

 しばらくは阪神間を往来するが、米国のペリー提督が黒船4隻を率いて浦賀にやってきたとの報に弥兵衛は飛躍の好機到来とばかり江戸に向かう。だが、ペリーはいったん帰国、戦端は開かれなかった。

 弥兵衛は桜田門外の毛利家の棟梁部屋の賄い兼掃除夫として「脾肉の嘆」をかこつ日々だった。安政の大地震が勃発し、作業員頭として復興工事で少々懐をあたためるが、復興工事が一段落すると、失職、安政4年には江戸を去り、木更津や伊豆下田を流浪する。

 1861(文久元)年、横浜に出る。以来、1867(慶応3)年に横浜を去るまでの6年間が弥兵衛伝のハイライトともいうべき横浜奮闘期となる。

 弥兵衛が目を付けたのは、数多くの外国艦船に青果物や日用品を売り込むことであった。そのためにはカタコトの英語が話せないと始まらない。

 当時は中浜万次郎(ジョン・マン)の『英米対話捷径』や村上美茂の『エゲレス辞書和解』『三語便覧』など出版されていたが、弥兵衛はわずか1カ月の独習で、ひと通りの英会話を身に付けた。

 外国艦船に売り込むためには「株」を持っていなくてはならない。友人の武蔵屋総吉と組んで、生糸の大手売り込み商、芝屋手塚清五郎、通商「芝清」から株を借りて売り込みを始めた。そのころ芝清といえば、横浜を代表する豪商で早くから株の賃貸しに手を染めるなどして巨富を築いていた。

 芝から株を借りることに成功したとき、弥兵衛が富商への道程を切り開いたといえるだろう。=継承略

【連載】投資家の美学<市場経済研究所・代表取締役 鍋島高明(なべしま・たかはる)> 

■光村弥兵衛(1827-1891)の横顔
 1827(文政)10年周防(山口県)の農業水木源左衛門の長男として生まれるが、農業を嫌い、家業は甥に譲り、みずからは肥料や木綿の商売をやった。1861(文久元)年、開港3年目の横浜に出る。両替商として成功するが、1866(慶応2)年「豚屋火事」で邸宅が全焼、神戸開港近しとの情報に神戸に移住する。伊藤博文(兵庫県知事)、井上馨(大阪造幣局頭)ら長州人脈の支援を得て勢力を拡大、西南戦争では持ち船を政府御用船に提供、巨利を占める。明治13年には両眼とも視力を失う。同24年没。長男利薄(1877-1955)は近代美術印刷の創始者。