火山の噴火で消滅したローマ帝国の都市、ポンペイのような村が日本にもあるという。かつての須走村、現在の静岡県小山町須走地区。宝永4年11月23日(西暦1707年12月16日)午前10時頃、南東斜面より噴火した富士山の噴煙は成層圏まで達し、江戸市中にも火山灰が降った。富士山東麓の一帯に降った火山灰は数メートルも積もり、須走登山道の入り口にある須走村は村全体が火山灰に埋もれて壊滅した。

山を掘ったら畑が、駐車場の下には家も

宝永噴火の火山灰層の下から発掘された畑の跡=小山町柳島(静岡県埋蔵文化財センター提供)

 静岡県小山町柳島の新東名高速道路建設予定地で県埋蔵文化財センターの試掘調査が始まったのは2015年のことだった。現場は木々が茂る山の斜面だが、かつて湯船城と呼ばれる城があったと伝えられている。このため新東名の工事を前に城の痕跡を探る調査が行われたのだ。

 「堀や土塁などが出てくるのではないかと思っていたのですが、1メートル程度、火山灰層を除去すると畑の跡が出てきたのです」と調査に当たった県埋蔵文化財センター主査の勝又直人氏。

 宝永の噴火により現場付近では、降砂が1メートル程度積もったことは確認されていたが、その下から畑が出てくることは予想外だった。畑には、噴火直前に起きた地震の地割れによるものとみられる段差も確認された。降った砂が積もり放棄された畑が300年を越す年月を経て掘り返されたのだった。

 発掘された畑跡から10キロほど西方、富士山東麓の山裾に小山町須走地区がある。現在の須走は、小山町約1万8900人の人口の4分の1近くが住み、自衛隊富士学校があり、公務員宿舎が数多く建っている地区でもある。

 小山町史によれば、宝永の噴火当時、須走は約70戸の小さな村だった。富士山の噴火によりすべての家が焼失、倒壊し、3メートルも火山灰が積もり、村は火山灰の下に埋まってしまった。

 ただし、多くの死者やけが人が出たという記録は見つかっていないことから、人々は噴火の直後あるいは噴火の前に起きた地震により避難をしたとみられている。須走村は昭和31(1956)年に小山町と合併した。宝永噴火以降の復興は降り積もった火山灰の上に築かれたものだという。

「昨年、大学の先生が機械を使って地面の下を調べていきました。うちの駐車場の下には、家が1軒まるまる埋まっているという話でした」と須走で旅館を営む女性は話した。火山灰層の下に宝永の噴火前の須走村がそのまま残っていると言われている。

この記事が気に入ったら「いいね!」をお願いします