明治中期の神戸港(開港資料館『開化の横浜・神戸』より)

 自ら英語とフランス語を身につけて、外国船の御用達商人となって大成功を収めた光村弥兵衛は、その後も快進撃を続けていきます。

 光村は亡くなる前に、長男・利藻の行く末を心配していたそうです。のちに利藻は「グラビア印刷の光村」の名を轟かせるほどの成功を収めましたが、父・弥兵衛の投資家精神は、うまく受け継がれていったのでしょうか? 市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


   同郷の先人たちの支援を得て、海運業で大成

  伊藤博文、井上馨ら同郷の先人たちの支援を得て、光村弥兵衛の快進撃が始まる。明治初年のことだ。「開花の時運に乗じ、貿易は順風を遂げ、昨日に勝る今日の運」とその幸運を手放しで喜ぶ弥兵衛。1873(明治6)年5月14日付けの大阪新聞にはこんな広告がみえる。

 「名にし負う運貨丸。速にして利を得る。しかも、下関、博多、長崎など各港の便利を達し、諸品の輸送を通ぜんと、今般100馬力の双輪船を買求め、光運丸と号し、各港を往復して、六大州の御客様へ御披露候。…また船中まかないに洋食などはお好み次第。光村弥兵衛謹告」(神戸新聞社編『海鳴りやまず-神戸近代史の主役たち』より)

 弥兵衛が光村姓を名乗るのは、1871(明治4)年、平民も姓をつけるようになってからのことだが、この時、彼は郷里の光井村にちなんで光村とした。ちなみに現在は光市である。

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