『若尾逸平』内藤文治著(大空社刊)

 甲州財閥の礎を築いた若尾逸平は、大隈重信にも一目置かれる、大相場師でした。畑仕事よりも、商売に向いているといち早く気付き、父親を説得して、資金を融資してもらって商売の道に入りました。小商いで地道に稼ぐ実直さと、ハメられて無一文になっても愚痴をこぼさず、前向きに商売の道を歩み続けた若尾の前半人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

【連載】投資家の美学

大隈重信が認めた大相場師

 大隈重信侯はみずからも相場が大好きだったが、相場師との交友も盛んだった。明治の成金王、鈴久や桑名の富豪諸戸清六との親密な付き合いはつとに有名だが、大相場師で甲州財閥の開祖総本山・若尾逸平とも親しい間柄だった。

 大隅が若尾についてこう語っている。

 「若尾は死ぬまでろくなものも着ず、ろくなものも食わずに働き通しであった。しかし公共事業に比較的金を出している。……さる旗本屋敷に奉公していたことがあるが、その家が零落したら若尾はそれを養い続けたそうだ。やはり非凡なところがある」(大隈重信著『早稲田清話』)

 大隈が甲府に出掛けたとき、若尾ら地元要人を前に、富豪と公共事業について長広舌をふるった。

 「真の富商は資産を公共のために散ずものであるんである」と吠えると若尾は一つひとつうなずいていた。県知事があとで大隈にささやいた。

 「あのじいさんはなかなかしわくて県などの事業に金を出してくれません。しかし、老侯のおかげでこれからは出してくれることでしょう」

 この話を小耳にはさんだ大隈の側近で早稲田大学総長の高田早苗はひざをたたいて喜び、若尾を訪ね、大学への寄付を頼んだ。しかし、不首尾に終わったという。ひと筋縄でいく男ではない。

畑仕事よりも商売に才能見出す 粘り強く続けた小商いで150両を稼ぐ

 幼いころの逸平は無口で負けん気の強い子供で泣いて家に帰るようなことはなかった。素足にわらじをはき、天秤棒を肩にして村々を回って桃を売り歩いた。

 畑仕事より商売に自分の才能を見出した逸平は、父親を説得して資金を融資してもらうと、商売に本腰を入れる。この地方特産の葉タバコと真綿(まわた。繭のわた)の行商に甲州の山々を駆け回った。

 「もともと小さな行商だから、いくら稼いだってもうけは知れたものだが、根気強い男だから、それが積もり積もって、150両というまとまった金になった」(野沢嘉哉著『大成功 出世の緒口』)

 当時の150両は今の価値に直すと、ざっと500万円に相当する。商人としての逸平は「金銭を貴ぶこと命の如く、時を重んじること黄金の如くであった」と評されるように「金と時」をことのほか大事にした。23歳で江戸に出た逸平は実直さが認められて、質屋と古着屋を兼ねる若松屋に婿入りする。