人口が減少し、社会の成長が見込めない時代といわれます。一方で、科学技術の進化が、高齢化の進む日本の未来を、だれにとっても暮らしやすい社会に変えるのではないかともいわれています。わたしたちは一体どんな社会の実現を望んでいるのでしょうか。

 幸福学、ポジティブ心理学、心の哲学、倫理学、科学技術、教育学、イノベーションといった多様な視点から人間を捉えてきた慶応義塾大学教授の前野隆司さんが、現代の諸問題と関連付けながら人間の未来について論じる本連載。12回目は「永遠の命は可能か?」がテーマです。


[イメージ]医療技術の進歩によって、人のからだも製品のように“修理”から“交換”へと向かい始めています(ペイレスイメージズ/アフロ)

 2004年に『脳はなぜ「心」を作ったのか ── 「私」の謎を解く受動意識仮説』(筑摩書房)を書いた時、ちょっとSFチックになるからと、せっかく書いたのに削った部分がありました。そういえば。

 「永遠の命は可能か?」と、「愛・真・善・美とは何か?」です。前回、この本について書いている時に、そのときの原稿が出て来ました。

 「永遠の命は可能か?」には、今後寿命が倍になる、と大胆なことを書いています。やや楽観的すぎるかもしれませんが、せっかくの機会なので、お蔵入りになっていた原稿をここで公開しましょう。

永遠の命は可能か?

 あと50年で平均寿命は倍になる。

 永遠の命は可能か。この問いは、ふつう、宗教的な、霊的な問いかけかもしれない。二元論者が好む疑問かもしれない。二元論者は、死後も霊魂は存続すると考える。しかし、心が脳の産物であると考えられる以上、死後の世界があるのではないか、という考えは、残念ながら期待薄だ。

 ただし、科学は宗教を否定する力を持たない。地動説が地球中心の世界観を否定しても宗教はなくならなかったように、また、ニーチェが「神は死んだ」と言ってもそれが全人類に受け入れられたわけではないように、死後の世界が否定されても宗教は存在し続けるのかもしれない。科学と宗教は、目的や対象が違うのだから。

 ただ、二元論には無理がある。『血液が血管の中を流れるのは、ポンプである心臓のおかげではなく、何か他の霊的な力が働いているはずだ』と考えるのは勝手だが、そんな考え方が一般に受け入れられないのはご想像通りだ。脳と心の話も同じだ。『心が存在するのは脳のおかげではなく、何か他の霊的な力が働いているはずだ』と考えるのは勝手だが、心臓はポンプではないというのと同じように、そんな考え方は100パーセント近い人が認めない時代が、もうすぐ、(いや、いつの日か、)来るだろう。

 というわけで、私は宗教を敵にまわすつもりはないが、しかし、霊や死後の世界は絶対に存在しないと思っている。たぶんそう思っている人は、そうかもしれないが認めたくないと思っている人も含めると、少なくないのではないかと思う。

 永遠の命は可能か。ここでは、人間の命を永久に、あるいは半永久的に、持続させることは可能か、という意味で、このことを考えてみたい。

 楽観的に考えて、あと50年くらい経つと、人の平均寿命は今の2倍くらいになるのではないかと思う。もちろん、テクノロジーの進展によって。

 そんな無茶な、と思う人もいるかもしれないが、根拠を以下に述べよう。

 自動車が故障したとき、故障した部品を修理するのと、その部品を新品と取り替えるのと、どちらが信頼できるだろうか? 当然、交換だ。さびて穴が開いたガソリンタンクの穴をふさいでもまたその隣に穴が開く。磨耗してしまったブレーキパッドを修理することは難しい。それよりも、ガソリンタンクやブレーキパッドを新品に取り替えるほうが、はるかに自動車の製品寿命を高める。極端なことをいえば、すべての部品を新品に交換し続ければ、その製品は永遠に使える。

 だから、人が作り出した製品が故障したときには、部品を交換してきた。電気製品を修理に出すと、いろいろな部品が交換されるので、本当にこんなに交換しなければならなかったのか、と疑いたくなるほどだ。

 ところが、これまでの医療は、人の部品の交換ではなく、修理で対応してきた。それは、実は、交換部品がなかったからだ。胃に穴が開くとふさぐしかなかったし、関節が磨耗したら痛み止めを打ちながらだましだまし使うしかなかった。