江戸時代元禄期に起きた須走と富士山本宮の争いは、幕府裁定により決着したかに見えたが、安永年間になって再燃する。再燃のきっかけは富士山9合目で発見された参詣人の行き倒れ遺体をめぐる対応だった。

富士山と宗教(12) 須走と本宮の争いは富士山利権化の始まりだったのか?

「このほう支配の地内にこれあり」

須走口より富士山頂に至る登山道の9合目付近。右側の建物が迎久須志之神社。かつては登山道が迎久須志之神社内を通っていたが、現在、神社は閉鎖され登山道も神社を回り込んでいる=平成28年8月撮影【富士山東口本宮冨士浅間神社提供】

 1772(安永元)年7月、須走口から富士山頂に向かう登山道の9合目付近に行倒人の遺体があることを近くの小屋で商売をしていた須走村の者が見つけ、下山をして須走村の役人に申し出たという。

 須走村の役人は遺体を確認した後、発見者である小屋の者に遺体を見張っているよう命じ、自身は小田原藩の役人に遺体があることを届け出た。一方、富士山本宮が2人の者を派遣して遺体を検分し、遺体の見張りをしていた小屋の者に「このほう支配の地内にこれあり候死骸に、須走村より番いたすべき様これなき由」と述べて下山をしたという。

 以上は小山町史に記されている安永の争論の発端だ。小山町史によれば、当時、須走村では富士山の8合目から頂上までを同村の支配にあると考えていた。

 9合目の遺体への対応に富士山本宮が関わることは、8合目から山頂までの支配に富士山本宮が干渉し、ひいては支配を奪い取ろうとする企みととらえられ、看過できないと小田原藩を通じて幕府に訴えがなされたという。

 一方、富士山本宮側も8合目以上は本宮の支配地であると主張し寺社奉行に訴えを起こし、訴訟は8年越しの長期戦となった。裁判が長期化したのは、富士山本宮が上吉田村(現在の山梨県富士吉田市上吉田地区)とも頂上境界をめぐり争い、富士山頂の支配について過去に遡って詳細に検証が行われたためとみられる。1779(安永8)年についに裁許がくだされ、富士山8合目から頂上までは富士山本宮の支配地であることを認める判断が示された。江戸幕府はどのような理由から富士山の8合目から上を富士山本宮、現在の富士山本宮浅間大社の支配地であると認定したのだろうか。

関ヶ原の戦いの報賽で社殿再興

徳川家康の報賽により再興された浅間大社社殿=富士宮市

 『富士の研究』は1928〜29(昭和3〜4)年に現在の富士山本宮浅間大社が編纂した全6冊に及ぶ書籍だが、その中で宮地直一、広野三郎両氏が関わった第2巻「浅間神社の歴史」は、須走と富士山本宮の争論について詳しく解説している。

 同書は元禄時代の須走の訴えを「頂上支配権の一部を獲得せんとする企て」と記し、安永年間に再び須走が訴えを起こしたことについては「(元禄の争論で)八合目以上の支配権に就いては、何等決する所がなかった為に、安永八年に至って再び紛議が起った」としている。

 同書によれば、富士山本宮側の主張が認められた背景に、関ヶ原の戦いの報賽(ほうさい)として、徳川家康の寄進により富士山本宮の社殿が再興されたこと、その後、散銭などは(社殿の)修理料とするとした富士山本宮の宮司に授けられた証文があり、内院(噴火口)散銭などは(社殿の)修理料であると認める裁許があること、などがあるようだ。

 富士山頂をめぐる江戸時代の争いについて、中世史に詳しい静岡県富士山世界遺産センター准教授の大高康正氏は、中世の支配関係が根底にあったと指摘。「中世は、今川がいて、武田がいて、北条がいた。富士宮の方は今川に許可をもらって認められた権利というものがあったはずですし、須走の方は北条であったり武田であったり。支配が結構変わったりするので、その時に認められた権利というものがあったわけです」と話す。