昭和16年6月21日高輪本邸にて左より2番目が山下亀三郎、その左が池田成彬、右が王兆銘

 投資家の福沢桃介は、場末の床屋で散髪を好み、お茶屋の帰りも通りに出てから流しの馬車を拾うなど、かなりのケチだったと言われています。そのケチだった福沢が、かなりの締まり屋だ、ケチだと語っていたのが、山下亀三郎でした。船舶と不動産投資で巨万の富を築き上げた山下ですが、その独特の交際術にもその秘密が隠されているのかもしれません。市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。


  金の使い方がケチ 「亀さんの腹痛」で宴席を中座

 山下亀三郎は大正バブル景気を象徴する人物としておもしろ、おかしく描かれることが多いが、海運界の立志伝中の人物として経済界でも大きな足跡を残している。水野勇の「海運人物史」では山下について大きなスペースを割いている。

 「彼は単に海運界だけでなく、広く政界、官界、さらには軍部の要人と交際し、昭和18年(1943年)3月には、時の東条内閣によって創設された内閣顧問に郷古潔、藤原銀次郎、結城豊太郎らとともに任命され、大正昭和期の代表的政商とさえ称された。このほか大正5年(1916年)には渋沢栄一らとともに扶桑海上火災保険会社を創立、監査役となり、のち取締役。また、同6年(1931年)には浦賀ドック取締役となり、のち同社社長。同8年(1932年)には松方幸次郎らと国際汽船会社を設立して取締役に就任」

 山下汽船の最盛期ともいうべき昭和16年当時のわが国の船腹量は1962隻、609万4271トン。内訳は日本郵船が133隻、86万5944トン、大阪商船が109隻、55万7126トン、山下汽船が55隻、45万7605トンの順だった。

 山下と親しかった異色のジャーナリスト野依秀一が証言している。

【連載】投資家の美学

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