大正初期の米穀取引所の立会いに参加する片野『米商秘暦大鑑』柄沢照寛編より

 片野重久は小学校の校長から実業界に身を転じ、第4代東京米穀取引所理事長に就任しました。実業界では人々の信頼と実績を得て、数々の要職を任されましたが、日露戦争の折、株式投資で大敗し、最終的には自ら命を絶つ道を選びました。異色の経歴と悲哀に満ちた末路にたどり着いた投資家の人生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。 

【連載】投資家の美学

思惑に失敗して自殺した投資家あれども、割腹で果てたのは片野だけ

 明治から大正にかけて東京米穀取引所(東米)理事長といえば財界の要人にとっては願ってもないポストであった。東京商業会議所の会頭までが東米の理事長の座を狙って策略を巡らすが主務省の反対で実現しなかったこともある。その第4代理事長である片野重久が56歳の誕生日を期して自ら命を断った。1907(明治40)年6月11日付東京朝日新聞は自裁の原因を次のように報じた。

 「日露戦争以来、昨年11月までに70余万円もうけ込みしが、本年に入り、が然株式の大暴落をきたし、せっかくの70余万円も瞬間に吐き出すの悲境に陥り、かてて加えて幾万円かの追銭をなせしも、さながら焼け石に水を注ぐがごとく、その他種々の買占め策もことごとく失敗に帰し、絶体絶命の結果、ここに自刃するに至りしなり」

 思惑して失敗し自殺した相場師は北浜の岩本栄之助、山一証券社長の太田収らがいるが、割腹して果てたのは片野だけである。いかにも旧藩士らしい最期にマスコミは一斉に「美事な死」と賛辞を惜しまなかった。『東京経済雑誌』などは「壮烈賞すべし」と、尋常一般の投機師と同じような次元で扱うべき人物ではない、とし片野の人となりに敬服する筆使いである。人事情報に精しい「万朝報」はこう記している。

 「そのころ東京府知事たりし高崎五六氏の邸に出入りするうち、水野龍氏とじっ懇になり、その人は鉱山業武田忠臣氏に依頼して、片野氏を使ってもらうことになった。武田氏は当時、米穀取引所の大株主で、たまたま米相場をする時は片野氏に命じ、売買させたが、書生に似ず、万事に機敏にして、かつ正直で大いに信用を得……」