数日後、一家で揃って夕食をすませた後の、団欒の時間を狙って、捧は切り出した。

 このままでは、会社にも先がないこと。そこで、長野県の伊那市というところにできる、博物館みたいな施設の館長をやることになったこと。話を黙って聞いていた妻は、二つだけ不満を漏らした。

「自分だけ、なんで、そんな面白そうなことをやろうとするの」

 もうひとつ、日々の家事の中で、捧がやることになっている、犬の散歩をどうするかということ。

 それから、1ヶ月ばかり必死で会社をたたむ準備が続いた。

【連載】伊那谷楽園紀行・住みたくなる<人々>を求めて

 年が明けて2010年1月4日。捧は、伊那市駅前の再開発ビル・いなっせに入居する準備室に初めて出勤した。

 偶然、新聞記事を見つけてから、4ヶ月あまりで人生は、まったく予想もしないものになった。いったい、これはどんな運命なのだろう。偶然の積み重ねが生んだ奇縁に、いまだ狐につままれた気分だった。市の教育長で、長谷にある常福寺の住職でもある松田泰俊は、奇縁に驚きを隠せない捧に、こう諭した。

「偶然のように見えますが、これは全部縁というものなのです」

 すとんと、腑に落ちた。

 思い返せば、自分の50年ばかりの人生も、それ以前の人生も、すべて奇妙な縁の連鎖なのである。捧の父は、もともと新潟県三条市の生まれである。少々変わった捧姓のルーツは、三条市ではなく信州にある。

 鎌倉時代ごろ信濃国筑摩郡に捧荘という荘園があった。ここは、諏訪大社の荘園だったとされるが、この荘園の有力な一族は、年貢を納めず、あまつさえ周囲の荘園から人を攫い、下人として使役していた。

 この悪行の訴えを聞いた、時の征夷大将軍・源頼朝は激怒し、土地は召し上げられ、那須与一に与えられたという。頼朝に怒られ、那須与一に土地を取られて、ほうほうの体で流れ流れて、越後に土着したのが、捧の考える自分のルーツだ。

 父親も、どういうわけか、生まれ育った土地で成長するとか、ひとつのところに落ち着くことを好まなかった。東京へ出て建築設備の技師となり、全国を転々としながら現場監督をしていた。縁あって、地元出身の妻とは見合いで結婚して、家族もできた。それでも、大規模な開発や歴史に名の残りそうな建築計画があると聞くと、ひとつのところにとどまってはおられず、家族を連れて現場のある街から街へと渡り歩いた。金沢の都ホテルの設備工事を監督したのは、父親が語る自慢話の一つだった。