月光仮面とどくろ仮面(C)川内康範/宣弘社

 映画全盛の時代に、初の「テレビ映画」の製作に挑んだのは、テレビ局ではなく広告代理店でした。予算も人材も、撮影ノウハウも、何もないところからスタートしたテレビ映画が、のちに日本の娯楽の中心となっていきます。

 国産テレビヒーロー第1号の「月光仮面」は、贔屓目に見てもカッコいいからは、かけ離れたビジュアルです。しかし、このビジュアルのこだわりこそが、これまでの映画にはなかった要素のひとつでもあり、奇跡の大ヒットにつながっていったのではないでしょうか?

 「【連載】「月光仮面」誕生60年 ベンチャーが生んだヒーロー」の第2回では、映画評論家で映画監督の樋口尚文さんが、月光仮面の企画と設定を煮詰め、その奇異なビジュアルまでがどう考案されていったのかを解説します。 

映画業界の若い下っ端を引き抜く 当時の日本のヒーローといえば時代劇の『鞍馬天狗』

 ネオンサインというアイディアで広告業界を席巻した宣弘社の小林利雄社長は、続いて「テレビ映画」の自社制作に打って出ることを思いついた。だが、テレビ局ではない一広告代理店の宣弘社には、制作のノウハウはおろか、人材も機材も何もない。

 当時、黄金期を迎えていた映画会社からすると、ほどなくしてテレビが映画を駆逐してゆく未来など想像しえず、子どもだましのテレビに商機は見出せず、なにも協力してくれなかった。そこで小林利雄は、そもそも『月光仮面』の企画を思いついた張本人である作家の川内康範(やがて昭和を代表する作詞家、そしてカリスマ的な論客として知られる)に相談し、当時、既成の映画業界の下っ端で汗をかいていた若いスタッフたちを紹介してもらったのだった。

 その筆頭が当時29歳の西村俊一で、東宝の外注プロダクションで添え物作品の製作担当などをこなしていたが、一枚看板のプロデューサーとなるには至っていなかった。西村に声がかかったのは1957年末で、もう番組の放映開始まで三カ月を切っていた。あわてて西村は川内のもとで企画を詰めることになるのだが、時代劇にひとかたならぬ関心があった西村は『鞍馬天狗』のような作品を創れないものかと川内に尋ねたという(後に西村は制作プロダクションC・A・Lのプロデューサーとして『水戸黄門』『大岡越前』といった時代劇の大ヒット作を続々と生み出すことになる)。