平沼専蔵『横浜成功名誉録』森田忠吉著より

 石炭担ぎから横浜長者番付の筆頭に躍り出た平沼専蔵の快進撃はとどまることを知らず、生糸の輸入業から、銀行を設立し、金融業にまで進出しました。蓄えた富は貧しい人たちのための学校設立に充て、慈善事業にも貢献していたことは、じつはあまり知られてはいません。
 
 また、平沼には商才に長けた評判のよい養子・延治郎にも恵まれました。しかし、平沼の自慢であった延治郎はやがて無念の最期を迎えることになります。専蔵の後半生を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

  
  生糸輸入から、金融王へ あきれた蓄財の神髄とあまり知られていない美談

 横浜市立大経済研究所では平沼専蔵をこう評価している。

 「海産物商明石屋に仕えた後、間もなく独立して唐糸・洋織物の引取商(輸入商)を開業、明治11(1878)年からは芝屋清五郎の生糸売込商の業務をも継承した。その後、営業は順調に発展し、実業界に地位を確保した。明治23(1878)年には、横浜銀行・金叶貯蓄銀行を設立したのち、同44(1911)年には平沼銀行を設立した。彼も茂木惣兵衛、若尾幾造らと同様に生糸売込商とそれに資金を運用する機関銀行を持って業務の発展を期した。他に私立平沼学校を建て、政治家として活躍、明治44(1911)年には横浜市水道局長を務めた」(『横浜経済・文化事典』)

 また『兜町盛衰記』の著者 長谷川光太郎国民新聞経済部長はこう述べている。

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