富士山表口が夏山シーズンを迎えた7月10日、静岡県富士宮市村山にある村山浅間神社で恒例の開山祭が催された。多くの人で賑わう境内では、神事が行われ、富士登山の安全が祈願された。その神事を担ったのは頭襟(ときん)をかぶった山伏たちだった。

結袈裟をつけた宮司

村山浅間神社で富士山開山日に行われる護摩焚き神事=2018年7月10日、富士宮市村山

 もうもうと煙が立ち上る護摩壇。読経が流れ、鈴や銅鑼(どら)の音が響く。村山浅間神社の境内は神事の熱気に満ちていた。木が組まれ、杉の葉で囲まれた護摩壇に火が焚かれて神事は佳境へ向かっていく。

 護摩壇と向き合う位置に山伏の一団が座を占めており、その中に烏帽子を被った白装束の村山浅間神社の宮司の姿もあった。宮司は山伏たちが身に着けている結袈裟(ゆいげさ)をまとっていた。最後に護摩壇に護摩木が投げ入れられて神事は終了した。

「富士のお山で修行される方が安全に修行されるように、そして、天候不順がおさまり人々が安心して暮らせるように祈った護摩焚きです」と神事を行った宮城泰岳(みやぎたいがく)さんは話した。

 宮城泰岳さんは、京都にある修験道本山派の寺院、聖護院(しょうごいん)の執事だ。西日本を襲った豪雨の被災地への祈りも込めた村山浅間神社での富士山開山の護摩焚きは、宮城泰岳さんら京都・聖護院の山伏と各地の本山派の山伏、そして地元、村山の山伏によってとりおこなわれた。

消えていた歴史が復興した

 30年ほど前、聖護院の山伏が富士山登拝をした時、村山浅間神社で地元の人たちが護摩焚きをしていることを知ったという。聖護院の山伏と村山の人たちとの交流がはじまり、富士山開山日に聖護院の山伏が村山浅間神社を訪れて、一緒に護摩焚きの神事を行うようになったのだという。

 しかし、聖護院と村山の結びつきはこの30年間にとどまるものではない。「ここは聖護院の末寺なのです。消えていた歴史が富士山開山の儀式として復興したのです」と宮城泰岳さんは話した。

 村山浅間神社が修験道本山派の聖護院の末寺とはどういうことなのか? そして、消えていた歴史とは何だったのか?

 「ここが村山浅間神社と呼ばれるようになったのは明治時代からです。以前は興法寺と呼ばれていました。興法寺は聖護院の末寺です」と富士宮市埋蔵文化財センターの渡井一信氏は解説する。

 富士宮市教育委員会は村山浅間神社の調査報告書を平成17(2005)年にまとめている。報告書には「村山浅間神社は神仏分離令により、それまでの富士山興法寺から大日堂を分離し、村山浅間神社と改め仏教を廃し、明治六年には大宮浅間神社(現富士山本宮浅間大社)の摂社に組み入れられた」と記載されている。

 明治時代の初めまで、村山浅間神社は富士山興法寺だった。修験道本山派の聖護院の末寺であり、富士山修験道の中心地だった。富士山興法寺の境内には浅間神社があり、神仏混合の宗教世界が繰り広げられていた。

 しかし、明治時代になり、明治政府のもと神仏分離令によって神道と仏教が分離されると、富士山興法寺は廃されて村山浅間神社になったのだ。