きょう73回目の終戦の日を迎えました。

 文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋さんが執筆する都市と建築という視点による戦争論。最終回の3回目は文明の進展が変えた戦争の根本的性質を考えます。

焼野が原と瓦礫の山

シリアの反体制派地域で空爆。瓦礫に残るのは憎しみなのか(写真:ロイター/アフロ)=2018年1月9日撮影

 あの8月15日からしばらく、日本の都市光景は「焼野が原」であった。野坂昭如は、戦後日本文化を形成した昭和一桁(生まれの)世代を「焼跡闇市派」と命名する。

 一方、最近のIS(イスラム国)支配地域に対するミサイル攻撃で、テレビに映し出されてきた光景は「瓦礫の山」である。この「焼跡と瓦礫」という、戦災都市景観の違いもまた「風土」というものだ。

 当時の日本の都市はほとんどすべて木造でしかも密集していたから、爆撃で焼かれればひとたまりもない。日本人がもっとも恐れたのは焼夷弾であり家を焼かれて逃げ場を失うことであった。

 事実、米軍は(当時は陸軍の傘下におかれた空軍の力を示す必要があったという)関東大震災を参考にして木造住宅を焼く実験を繰り返し、逃げ場をなくして蟻を踏み潰すような爆撃計画を立てて実行した。木造の密集都市は、日本という国の風土と文化における最大の弱点であり、本土決戦など土台無理な注文であったのだ。

 しかしベトナム戦争ではこれが逆に作用した。あの熱帯雨林(ジャングル)の風土における濃密湿潤の葉陰に隠れるベトコンは、金属塊を検知するレーダーにかからず、米軍はこの風土を変えるべく枯葉剤を使用したが、その副作用による人道的問題によって作戦を制限せざるをえなかった。

 一方、中東の建築は、日干しも含めてすべて煉瓦であり、ミサイルはその壁を崩し、人々はその下敷きになって圧死する。あとには大量の瓦礫が残って都市機能を麻痺させる。

 この「焼跡」と「瓦礫」の差は、戦後の復興にも影響を与えるだろう。もちろん片づける手間がないだけ焼跡の方が容易だ。そして人々の精神にも大きな違いを与えるだろう。

 焼跡に立つ精神には、空虚とともにそこはかとない希望が沸き起こる。瓦礫の中の精神には、怨念が消えない記憶として蓄積される。日本人が戦後、手のひらを返したように従順となり、復興に邁進したのは、火災によって跡形もなく消失する、木造建築の風土とその文化精神によるのかもしれない。