吉田蹄三編『穴水要七』より

 穴水要七もまた甲州出身の投資家でした。穴水の伝記には「小躯、大力、寡黙」と記されていますが、投機の盛んだった同地の中でもとりわけ激しい投機心の持ち主だったと言われています。まずは血気盛んな若かりし時代の穴水の活躍を市場経済研究所の鍋島高明さんが解説します。

【連載】投資家の美学

天性の相場師と呼ばれた穴水要七の生い立ち

 1929(昭和4)年1月3日、穴水要七が急逝したとき、藤原銀次郎は熱海の別荘にいた。急報に接した藤原は取るものも取りあえず、東京の穴水邸に駆けつけた。まだだれの姿もなかった。出迎えた夫人は藤原に向かって「かねてから故人の意志でしたので、あなた様にまずお知らせしました」と話した。

 その2、3時間後に現れたのが大川平三郎であった。大川は自分より先に穴水の枕辺に藤原が座っているのをいぶかった。なぜなら、当時の3人の関係は穴水が富士製紙の専務で、大川はそこの社長。藤原はライバル会社王子製紙の社長であったからだ。穴水が残した1通の遺書が起爆剤となって予想外の製紙業大再編が始まるが、天性の相場師と呼ばれた穴水の生い立ちからみていこう。

 伝記には「小躯、大力、寡黙」であったと記されているが、投機の盛んな甲州でも穴水ほど激しい投機心の持ち主は稀であった。商略に長けた伯父のもとで犬馬のようにかけずり回り、商才に磨きがかけられていく。
要七は商売の駆け引きも天賦の才があった。10年間修業を積んだところで、伯父からその才を見込まれ、養子となる。そして娘とみと結婚し、穴水商店の後継者としての地位を約束される。

 要七は塩の取引でしばしば巨利を占めた。塩は当時、専売性ではなかったので、相場は年中大きく動いた。同業者が買い占めに失敗した塩を底値で肩替わりし甲府に運び、高値で売りさばいたこともある。だが、要七にとって山国の甲州は舞台が狭すぎた。強気、精励、頑健がトレードマークの要七は、毎朝だれよりも早く布団を蹴り上げたものだが、やがて故郷をも蹴り上げて他郷を目指す。後の史家は要七の投機本能に着目してこう記している。

 「彼は進んで駿河の塩を仕入れて郷関にひさぎ、それがまた動機となって富士川で運賃をかせぐ事業に着手するという彗敏さを現したし、鉄道院の御用商人となって八王子駅に石油を売り込む商売も始めた。彼にはまた激しい投機本能があった」(実業之世界社編『財界物故傑物伝』)