[写真]今里筋線は2006年戌年に開通した=大阪市内で(撮影:柳曽文隆)

 2018年は戌(イヌ)年。戦後7回目の戌年だ。これまでの6回は元気なわんちゃんが飛び回るように、動きの多い1年だったのか。夕刊紙記者だった筆者の体験も交じえ振り返ってみよう。

回想おおさかの夕刊紙 新大阪新聞最後の編集局長が綴るあの頃

1946年:守口市が誕生し家電王国大阪の企業城下町に

[写真]守口市役所庁舎、庁舎は旧三洋電機本社ビルを再利用している=大阪府守口市で(撮影:岡村雅之)

 終戦から間もない1946年(昭和21)。空襲の傷あとが色濃く残る大阪で、新しい息吹が芽生えた。2月、大阪市内の四ツ橋で、文楽座が再建される。歌舞伎や落語と同じように、伝統芸能の一角を占める文楽が、当時の大阪人にとって苦難を忘れさせてくれる生きた娯楽として支持されていたことを物語る。

 夕刊紙の発刊が相次ぐ。2月、戦前からの歴史を持つ「大阪日日新聞」が復刊するとともに、「新大阪」が創刊される。4月には「新関西」の前身となる「日本投書新聞」が産声を上げた。GHQの方針で大手紙が朝刊しか発行できない制約の中、夕刊紙は活字にうえた人たちの心に染み入るように愛読された。

 7月、大阪市立図書館が市内の国民学校内で再開。8月、大阪府警が闇市閉鎖のための取り締まりを強化。光と影が交差する戦後の混とんとしたまちの空気がよみがえる。11月、大阪市に隣接する守口市が戦後いち早く誕生。高度経済成長期以降、松下電器産業(現パナソニック)や三洋電機によるものづくりを支える。家電王国大阪の企業城下町だ。

 干支が6回循環する間に、「大阪日日新聞」は朝刊地方紙に装いを変えて活路を開いた一方、「新関西」は早くに「スポニチ」に吸収され、「新大阪」は役割を終え休刊した。

 筆者は「新大阪」の最後の編集局長として、休刊に立ち会った。現在の守口市役所庁舎は旧三洋電機本社ビルを再利用している。奮戦むなしく敗退を余儀なくされた民間企業の本社屋を受け継いだ庁舎は、全国的にも珍しい。企業城下町の物語は奥行きが深い。

1958年:船場問屋街が「年中無休」から「毎週日曜定休」へ

 1958年(昭和33)1月、江戸時代以来の慣習を守り、年中無休の商法を続けてきた船場の問屋街が近代的労使関係に目覚め、2月2日から「全店毎週日曜定休」を実施することを決めた。

 6月には梅田と福島の繊維問屋街も日曜週休体制に踏み切った。大阪商人版の働き方改革だろう。2月28日から3日間、紙芝居業者の免許講習試験が実施された。まちなかを巡回し、子どもたちを夢中にさせる紙芝居師たち。自由気ままな稼業にみえたが、しっかり勉強して免許を取得し、人気紙芝居の新作を提供してくれる紙芝居創作工房を中心に、集団で活動していた。

 2月、プロ野球球団大阪倶楽部が大阪タイガースと改称。3月の大相撲大阪場所で朝潮太郎(3代)が3度目の優勝。大阪場所で活躍し、5回の優勝のうち3回は大阪場所だったことから、「大阪太郎」とも呼ばれた。太い眉毛がトレードマーク。マッチョなイケメンぶりで子どもたちのヒーローとなり、少年雑誌の表紙を飾ることもあった。5月、府の人口が500万人超える。10月、柏原市が誕生。

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