[写真]インタビューに応じる恩知忠司校長=大阪市淀川区の大阪府立北野高校で(撮影:柳曽文隆)

 教諭になって初めて赴任した大阪府立平野高校で6年をすごした。教師としても中堅の域に達した28歳の時、大阪府内でも屈指の進学校である同府立生野高校(大阪府松原市)への異動が決まった。ちょうどその頃に結婚し、進学を中心に頑張る学校でも勤務したいと思っていたため、新たな生活のスタートとなった。

「小学校担任教諭への憧れが原点」 北野高・恩知校長の生き方<上>

野球部監督と授業の予習を続けた日々

 同校赴任後には野球部の監督になることが決まった。校長らから過去のクラブ指導経験を聞かれ「ソフトボール」と答えたが、後に自分の机に行くと、いつの間にかユニホームが置かれていた。

 しかし、担当した以上は一生懸命練習を頑張った。すると、部員らの頑張りで同校としては約半世紀ぶりとなる夏の大会大阪府予選ベスト8進出を果たした。「本当にうれしかったです。OBの方々もスタンドですごく喜んでくださいました。けど、同時に辞められなくなりました」

 1年目から担任も務めた。午後6時半まではみっちり野球部の練習をやり、そこから1時間ほどは、職員室で担任としての仕事を行う。帰宅すると、翌日の授業の予習を午後9時~午前0時まで行うという日々をすごした。

 「やはり予習をしないといい授業ができないし、ほかの先生にもついていけなかった。子どもも小さかったんですが、一緒に遊ぶ時間以外は勉強をしていました」

大学院で教育学、物の見方広がる

 そうした生活を約8年続けたある日、他校で教諭を務めていた妻の理加さん(現・大阪府立夕陽丘高校校長)が高校教諭を対象とした大学院での内地留学者募集の張り紙を見たことを話した。

 授業料は自己負担だが、2年間勤務校に籍を置いたまま兵庫教育大学大学院で教育学の勉強ができるというものだった。

 この時は、教諭を続けながら自分の中で煮詰まったものを感じていた。出力が多いと、かさが減ってくる。「勉強したいなぁ」と考えていた時にこの話を知り、すぐに申し込み、大学院へ通うことになった。

 しかし、最初の1年は苦しんだ。それは「自分はよくこれで教師をやっていたなあ」と感じたからだ。自分はこれまで、ヤマ勘と熱意、若さでがむしゃらにやってきたつもりだった。しかし、教育学を学びながら自分のやってきたことの一つひとつを分析すると「こうすべきなのか」「ああすれば良かったのか」とこれまでの理論と重ね合わせながらいろいろ考えた。

 ただ、同時に自分の物の見方が広がっていった。2年後に生野高校へ戻り、大学院で学んだ点を生かしながら、以前より前に進んだ感触を持った。